(24)

 スミレの刺繍のハンカチーフが完成したので、意気込んでザカライアさんに渡す。……もちろん「意気込んで」いるところは悟られないように。


 でも、まだこういうことには慣れていなくて、声は少し上擦っていたように思う。けれどもザカライアさんはことさらそういう部分をあげつらったりしないという確信はあったから、気にはしないことにした。


「私に? ありがとう。これは……スミレだね。とても綺麗だ」


 ニコニコと微笑むザカライアさんの顔を見ていると、プレゼントしてよかったという思いと同時に、わたしの言動がどれだけ彼の内に響いているのか気になった。まるで、街を覆う白い霧の中にいるような気分だ。人と接していて、ここまで思い悩んだのは初めてかもしれない。


 ……お母様や前の乳母ナースとの日々は、霧の中に入るというよりは、闇の中にいるような感じだった。とっかかりすらつかめなくて、それはとても苦しい日々だった。


 けれどもザカライアさんとの生活は、まだ霧の中にいるような感じで、近づけばかろうじて彼の本当の姿が見えるような気になる。その違いは、わたしにとってはとても大きい。そして、ザカライアさんと「理想の夫婦」になる夢をすぐにはあきらめられない理由でもあった。


 白いハンカチーフにスミレの刺繍をしてザカライアさんにプレゼントするというミッションを終えたわたしに、ザカライアさんはその虚を突くような――わたしにとっては――意外な言葉を発した。


「もうすぐ誕生日だったよね」

「え? ええ、はい。そうですけれど……」

「このハンカチーフのお礼もしたいし……欲しいものがあれば聞くよ。もちろん、私に叶えられる範囲の物しかあげられないけれど……」


 ザカライアさんはまるでそれが申し訳ないことのように話すので、わたしはあわてた。


「も、貰えるなら、なんでもうれしいです!」

「そう? でも要望があるなら聞くよ。と言ってもすぐには出てこないかもしれないから、誕生日前までに言ってくれれば用意する。それと、誕生日パーティーは親しい人だけでやるかい? 前に騒がしいのは苦手だって言っていたから……そちらの方がいいかなと思ってね」


 ザカライアさんとの夫婦生活は、やっぱりわからないことだらけで、答えがなさすぎて、高らかに打ち立てた「理想の夫婦」計画も停滞しているように思えたけれど……。


 ザカライアさんはわたしの誕生日を覚えていてくれた。夜のおしゃべりで「騒がしいところが苦手」と言ったことも。


 ザカライアさんは商会に勤めて膨大な商品や取引先を相手にしているから、これくらい記憶するのはどうってことないのかもしれない。ザカライアさんとしては、当たり前に覚えていて、当たり前に言ってくれただけなのかもしれない。けれども、その「当たり前」がうれしかった。


 少しでもザカライアさんの興味を引けているのなら……わたしという存在が、少しでもザカライアさんの心の中にいるのであれば、こんなにうれしいことはない。


 わたしは無意識の内に高鳴る胸を抑えた。こんな風にザカライアさんの言動に――ときめき、みたいなものを覚えたのは初めてだったかもしれない。


 わたしは、「理想の夫婦」をザカライアさんと目指そうとはしているけれど、ザカライアさんに恋をしようという目標は設定しなかった。……ということに、今気づいた。


 恋は落ちるものであって、するものではないという認識がわたしの中にあって、だからきっとザカライアさんとは仮に夫婦になれても、彼に恋ができるかはわからないと――思い込んでいた。けれどもそれは、思い込みに過ぎなかった。


 恋に対して少し臆病になっていたこともある。ライナスに捨てられたとき、わたしは自分の足についた地面から広がる世界すべてを壊されたような気持ちになった。それは、とても恐ろしい気持ちだ。そんな思いをしたくない。そういうことを無意識の内に勘案して、ザカライアさんとの恋には期待しない、恋をしないと思ったのかもしれない。


 けれどもそういった抑制の縄は、いつの間にか外されていたようだ。抑えようとしても抑え切れない、この胸の高鳴りがその証だ。


 急に、見るものすべてに色がついたような気がした。いや、今までも視界に入るものには色はあった。けれども、今はそれが鮮やかに、華やかに、色づいて見えるのだ。


 わたしの理性的な部分は、単純だと鼻で笑う。けれどもわたしの本能はもうとっくに恋へと走り出していた。愚直に、一直線に、ザカライアさんのもとへと。


「そう……ですね」


 瞬きほどの間にわたしはザカライアさんへの恋を自覚した。そして高鳴る胸を抑えながら、どうにか言葉を返す。大丈夫。ザカライアさんには気づかれていない。


 もし、気づかれたとしたら――わたしが、ザカライアさんに恋をしていると知ったら、彼はどんな反応を返すのだろうか? まったく想像がつかなくて、やっぱりわたしはザカライアさんと霧の中にいるようだった。


「久しぶりに……お父様とも会いたいですし。それからお義父とう様とも」

「……そうだね。君の友達も呼ぶといい」

「ええ。そうします」

「それじゃあ、君の誕生日に手配をしておくから」


 ザカライアさんはそう言って部屋を後にする。残されたわたしの心臓は、まだドキドキと早鐘を打っていた。


 ――恋をしたんだ。また、恋をしたんだ。……そういう実感でわたしはなんだか虚脱状態に陥った。


 前の恋は無惨にも破れた。けれど、今回は――?


 どうなるのかはもちろんわからないし、そしてどうすればいいのかもイマイチよくわからなかった。可愛く着飾っておしゃれをしても、小娘は小娘で、ザカライアさんの教養について行けるほど、わたしは頭がいいわけでもない。


 ライナスはわたしがおしゃれをして、可愛くしていればそれで夢中になってくれた――ある時点までは。


 ――わたしって、異性にアピールできる部分、少なくない?!


 その事実に気づいて、わたしはびっくりした。びっくりしたことにも、びっくりした。よくよく考えなくてもわたしは美少女じゃないし、胸が大きいとかお尻が大きいとかいう性的アピールにも乏しい。そして中身は平々凡々。特別賢いわけでもない。


 でも、アドバンテージはあった。わたしはザカライアさんと既に夫婦なのだ。そしてザカライアさんの秘密を知っているし、わたしの秘密もザカライアさんは知っている。


 ――ここから……どうにかできるかなあ……?


 自分でも甚だ疑問ではあるが、恋をしてしまったものは仕方がない。わたしは今まで以上に気合を入れて、腹を括ることにしたのだった。

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