(17)

 わたしが戸惑いを乗せて首をかしげると、なぜだかザカライアさんは痛ましいものを見る目でこちらに視線を寄越す。


 そこでわたしはまた「アレッ」となった。わたしが「『悲劇のヒロイン』ごっこをしているんです!」と宣言すれば、「ああそうなのね」で終わる話ではなかったのだろうか? そしてその「ああそうなのね」には呆れや軽蔑といったものがあっても仕方がなくて――でも、なぜだかそうはならなくて。


 わたしは混乱しながらもザカライアさんを見た。ザカライアさんは少しだけ考えるように、ゆっくりと視線を泳がせたあと、またわたしに目を戻した。いつ見たって涼やかで素晴らしい目元だ。その視線から先ほど感じた鋭さは消えていた。


 そしてザカライアさんはゆっくりと、幼子に言い聞かせるような優しさを持って話し出す。


「申し訳ないんだけれど……それを知れば君が気分を害するとは思うんだけれど……君の過去についてはお父上から聞き及んでいる」

「……わたしの過去? ……どのように、ですか? いえ、それはわたしから聞いてもよいものなのでしょうか……」

「君は昔のことを忘れているのかい?」


 ザカライアさんがひどくおどろいた顔をしたので、わたしはあわてて否定した。


「いえ、一応、覚えてはいます。でも、詳しいことはおぼろげで……なにがあったか、なにをされたのかは、きちんと覚えていますよ?」

「……まあ、そうだろう。子供の頃の嫌な記憶というものは、忘れてしまった方がいいから……」

「……それで、その、お父様からはどのように……?」


 わたしの心臓は嫌な感じにドキドキと高鳴っていた。その言葉を発したあとで、聞かなければよかったかもしれない、とも思った。けれども聞かずにはおれなかった。……あの、悪夢のような日々は、他人から見たらどういうものだったのかを。わたしはそれを、曖昧な主観でしか知り得ないから。


 ザカライアさんは慎重な様子でわたしに言う。


「君のお父上は……君を心配してこのことを私に打ち明けてくれたのだと思う。このことは、わたしの父も知らない。私と君のお父上だけの秘密だ」

「なぜお義父とう様にはお伝えにならなかったんでしょう……?」

「その……私の父は気難しい性質タチでね。君の過去を聞き及べばどのような反応をするか、正直なところわからなかった。だから君のお父上も私にだけ伝えたのだろう。そして私は父にそれを伝えなかった。今はそれでいいと思っている」

「わたしの過去は……黙っておいた方がよいのでしょうか?」

「……色々と面白おかしく吹聴したり、君に不愉快な質問を浴びせる輩が出ないとも限らない。隠しておくことは、君を守ることに繋がると私は考えている」


 わたしの過去――。


 長く、虐待されていた過去。


 わたしのお母様はわたしのことが嫌いらしかった。わたしの最初の乳母ナースは氷のように冷たくて、愛情薄い人だった。


 躾と称した理不尽な体罰を受けることは日常茶飯事で、けれども服を着たら隠れる場所にばかり暴力を受けていたから、お父様は長くそのことに気づかなかった。


 その頃のわたしは、とても奇妙な子供だっただろう。夜中に突然騒ぎ出したり、道端で失神を起こしたり、八つになっても夜尿症が治まらなかった。いつも他人の機嫌を伺って、ぎょろぎょろと目玉を動かしている子供だった。


 お父様が不気味そうな目でわたしを見ていたことを、覚えている。そんなときは決まってお母様は隣でニコニコと笑顔でいた。乳母はいつも仏頂面で愛嬌の欠片もなかった。


 わたしはずっと、お母様は「本当のお母様」じゃないんだと思っていた。血の繋がりがないから、あれだけ冷酷にわたしに接することができるのだろうと思った。唯一の心の拠り所だった本の中で、主人公は冷たい継母に虐待されていることは、珍しくなかったから。


 いつか「本当のお母様」と出会うことをわたしは空想した。小さな女の子が白馬の王子様を夢見るように。


 けれどもそんな日々が唐突に終わりを迎えて、わたしはお母様が「本当のお母様」だったのだと知った。わたしはそれで――しばらくおかしくなってしまったらしい。


 奇行はますます増えて、奇声を発して暴れたかと思えば、だんまりを決め込んで食事を口にもしない。そういうことを繰り返していた……らしい。


 そんなわたしが立ち直るまで支えてくれたのがメアリーだった。お父様はどうしても仕事があって忙しいし、新しい妻を迎える気にもなれなかったそうだから、メアリーがまさしくわたしの生命線だった。


 若くして未亡人となった父方の叔母も、しばらくの間だったが同居していた。わたしは自分にも他人にも厳格な叔母は少し苦手だった。悪い人ではないとはわかっていたけれども、彼女の言う「進歩的な女性」というものがあまり理解できなかったこともある。わたしは叔母の言う「進歩的な女性」のように、世間の偏見や決めつけと闘えるほど、強くは振る舞えないから。


 叔母は優しすぎるメアリーに代わってわたしに本当の躾を施した。してもいいことと、悪いことの区別がつかなかったわたしを、根気よく矯正してくれた。スクールへ通うことを提案したのも叔母だった。少しでも社会性や社交性が身につけば、と。


 叔母に勧められて入ったスクールでは、やっぱりわたしはどこか浮いていたけれど、エリーという大親友と出会えたことは得難い経験だと思う。


 そしてわたしはスクールで恋を知って――破れて……そして今ここにいる。


 ここにいて、過去を思い出しても「ああそういうこともあったなあ」というくらい、冷静に物事が振り返られるようになった。そうできるようになったのは、ひとえにわたしを見捨てずに根気よく付き合ってくれたみんながいたからだ。


 それをお父様がザカライアさんに伝えたのは……やはりまたわたしが奇行を起こさない保障はないからだろう。その可能性を孕んでいるということを黙って嫁がせるのは、不誠実だとお父様は思ったのかもしれない。


 ザカライアさんは……わたしの過去を聞いて、どう思ったんだろう? ちょっと変な小娘を嫁に貰ってしまったと思っているかもしれない。それだけが少し気がかりだった。


 けれども、ザカライアさんの話はわたしが思わぬ方向へ飛んで行った。

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