(16)
心配してくれて――それで、怒っていたザカライアさん。怒っていたのは――わたしのため? 怒ってくれた理由は――わたしのことを考えてくれているから?
そこまで考えると、なんだか胸がズキズキしてきた。この痛みは後ろめたさや罪悪感からくるものだ。
わたしは、空想の中でザカライアさんをひどい夫だと思って、「悲劇のヒロイン」ごっこを楽しんでいた。けれども現実のザカライアさんは、わたしのことを考えてくれる夫だった。……ぜんぜん、ひどくない。わたしのことを心配して、怒ってくれる――優しい人。
けれどもわたしはザカライアさんを見ようとはせず、心を開こうともせず、ただ状況に流されるがまま「悲劇のヒロイン」ごっこに浸って喜んでいた。……ザカライアさんはそんなわたしを知らないから、優しいから、スクールでのわたしを心配して、根も葉もない噂に怒ってくれた。
「悲劇のヒロイン」ごっこは、別にだれの迷惑にもならないわたしだけの遊び――だと、思っていた。けれども、どうやらそれは違ったらしい。
ズキズキと胸が痛むのは、ザカライアさんを騙しているからだ。わたしはスクールでの状況も、ザカライアさんとの家庭での状況も楽しんでいて、別に困ってもいない。つまり、心配したり怒ったりと、わざわざ気にかけてやる必要なんてないのだ。
ああ、つまり――「悲劇のヒロイン」ごっこをしていることを黙っている、ということは、ザカライアさんのためにならない。
わたしがようやくその答えを出した頃には、無味乾燥な行為は終わっていた。ザカライアさんはあらかじめ寝室に用意されていた水の入ったボウルにタオルをひたして絞り、それでわたしの体の汚れを拭ってくれる。
――ああ、いつもこうやってわたしの体の後始末をしてくれていたのはザカライアさんだったのね。……わたしはそれを見て、ますます決意を固めた。
営みのあとに眠くならなかったのは、行為に慣れてきたからかもしれないし、あるいは、わたしがザカライアさんへ秘密を打ち明ける強い決意を固めたからかもしれない。ひとまず今はどちらでもよい。重要なのは、ザカライアさんと会話できるごく短い期間を得られたと言う事実だけだ。
「あの……いつもこうして綺麗にしてくれていたんですね。すいません。……ありがとうございます」
「……いや、汚したのは、その……私だから」
そう言われてしまうとなんだか先ほどまでの行為が急に恥ずかしいものに感じられて、わたしはベッドに力なく寝そべったまま頬を熱くした。
――いけない。話があるんだから、こうしてぐったりしている場合じゃないわ。
わたしはそう思って腹筋に力を入れ、よろよろと上体をベッドから起こし、わたしの体を清拭するザカライアさんを見た。
ザカライアさんの目はどこか虚ろなままだった。最中に物騒な言葉を吐いているときのような。……けれどもその隙間からは、わたしの見間違いでなければ優しさとか、気遣いのような色がチラチラと見えるような気がした。
わたしはぐっとまた腹筋に力を込めて、自身に気合を入れるような気持ちになる。……「悲劇のヒロイン」ごっこをしています――だなんて言ったら、ザカライアさんはどんな顔をするだろう? 十中八九呆れてしまうだろうが……けれども、彼がこれ以上無用な心配や、憤怒の情に駆られないためにも、一度真実は言っておいた方がいいだろう。あなたの妻は、放っておいても大丈夫だと。
「ザカライアさん……。あの、お話があるんですけれど……」
「……どうかしたかい?」
「ええ。えっと……先ほどの……『先ほどの』というのは部屋に入ってきたばかりのときですけれど……ザカライアさんは、わたしの勘違いでなければ怒っていらしたわよね? それと、わたしのことを心配もしてくれました。……けれど、でも……そういうことを……わたしのために心を乱すことはなさらなくていいんです」
「それは……どういう意味だい?」
目を泳がせながら、ときどき言葉をつっかえさせながらも、わたしは一度に告げる。ザカライアさんの眉の山の部分が、ぴくりと動いたような気がした。その反応がまたなんだか怖くて、わたしは身を縮こまらせる思いをしながらも、ザカライアさんに促されるがまま、再び口を開いた。
「わたし……スクールでの悪い噂はそんなに気にしていないんです。気にしていたのは、ザカライアさんの耳に入ることだけなんです」
「……気にしていないなら、良かった」
「ええ。そうでしょう。でも、わたしはむしろ――楽しんでいたんです」
ザカライアさんの切れ長の瞳が、わずかに見開かれる。「悪い噂を楽しんでいた」だなんて、ひどい変人だから、仕方がない。でもまだザカライアさんは、そんなわたしに呆れの感情を抱いたり、無駄に心配させたことについて怒ったりはしていないようだった。まずはおどろきが先行している。そんな感じに見えた。
「だって――女性向けのロマンス小説のヒロインみたいで、面白かったんです」
ザカライアさんは、なにかを注意深く観察しているように見えた。その瞳から虚ろな色は消え失せて、きっと商会にいるときはこんな顔をしているのだろうな、という鋭い視線がわたしに刺さる。
ズキズキとまた胸が痛んだ。だって、言葉にしてみたらひどく馬鹿らしかったから。そう、でも、その馬鹿らしい事態をわたしは楽しんでいた。それは純然たる事実である。
「私は――ロマンス小説に詳しくないからわからないから、なんとなくのイメージでしか語れないが……つまり、酷い状態を小説の中のヒロインになりきって楽しんでいた、ということなのかな?」
「ロマンス小説に詳しくない」と言う割に、意外にもザカイラさんの指摘は的確だった。だからわたしはザカライアさんの言葉を受けて静かに首肯する。
「だから、ザカライアさんがわたしのことを心配したり――ましてやわたしのために怒ったりする必要なんてないんです」
そこまで言った。言い切った。
そしてわたしは恐る恐るザカライアさんの顔を見た。
ザカライアさんは――。
「……それは、君はそうしなければならなかった……そうしなければならないような状況に追い込まれていた、ということかな」
ザカライアさんは、わたしに不思議な問いかけをした。
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