(15)
その夜のザカライアさんは――怒っていた。わたしを前にして、何度か深呼吸をしている風で、それはわたしの目には怒りをどうにか抑えている風に見えた。
ザカライアさんが怒りに震える姿なんて、今まで見たことはなかった。……と言っても、夫婦になって一年どころか一ヶ月も経っていないのだから、「そんなの当たり前だよ」と言われれば、否定はできないくらい、わたしたちの付き合いは短い。
それでもいつもなにを考えているのかわからないザカライアさんが怒った姿を、今までのわたしは想像したことすらなかった。不機嫌そうにしている姿すら見たことがなかった。ここのところはお疲れのようだったが、それでもザカライアさんは不機嫌そうにはしていなかったのだ。
そんな、ザカライアさんが、怒っている。わたしは寝室に入ってきた軽装のザカライアさんを見て、びっくりして目を丸くした。
いつもだったらこのまま一言二言言葉を交わして、そしてふたりでベッドに入り、夜を越えて行くことになるのだが……今夜はちょっと、違うらしい。
ザカライアさんはベッドに座るわたしの姿を見とめると、怒らせていた肩を撫でおろした……ように見えた。蝋燭一本の明かりに照らされた中では、ザカライアさんの様子をつぶさに観察するには心もとない。
ザカライアさんは明らかに怒りをみなぎらせていた顔を引っ込めて、今度はひどく疲れたような、困ったような顔をして、ひとこと「すまない」とだけ言った。
わたしは謝られた意味がわからずに、幼子のような仕草で思わず首をかしげてしまう。
そんなわたしのそばへと、ザカライアさんは大股で近づく。歩幅は大きいが、不思議と粗雑な印象はなく、わたしがそんなザカライアさんに怯えを抱くこともなかった。
「君の乳母だった……メアリーから聞いた」
「まあ、そうでしたの……」
メアリーがどのようにザカライアさんの耳へと例の話を入れたのかわからなかったので、わたしの反応はとても淡白なものになってしまった。
同じように、ザカライアさんがメアリーからどういう話を聞いて、先ほどまで肩を怒らせていたのかわからず、わたしは戦々恐々としながら目の前に立つ夫の言葉を待った。
ザカライアさんがそれをどう受け取ったのかはわからない。わからないが、ザカライアさんの眉の間がきゅっと狭まったのがわかった。
――怒られるのかしら? わたしは身が縮こまる思いでザカライアさんの言葉を待つ。脳裏を駆けめぐるのは、ジョーンズ家に泥を塗ったとか、こんな噂をされるなんて恥ずかしいとか、そういう叱責の言葉だった。
そんな言葉が飛んできたら――わたしはまた心の中でニヤニヤとしてしまうだろう。だって、すごく「悲劇のヒロイン」っぽいから。一方的にわたしを悪者にして罵る夫なんて……「悲劇のヒロイン」ごっこに浸るには「おいしい」材料だ。
そうしてちょっとだけ、心の中でわくわくしつつ、一方でびくびくしつつ、わたしはザカライアさんが口を開くのを待った。
ザカライアさんはどう切り出そうか迷っている風に、わたしの目には映った。ここでちょっとわたしは「アレッ」となった。ザカライアさんがまるでこちらを気づかって、どういう風に切り出そうか迷っているように見えて、戸惑った。
だって、わたしたちの結婚には愛なんてものは存在しないはずだ。家と家との――もっと言えば、商売のための――繋がりなわけで、そこには一切の愛情や愛着なんてものは存在しないはずだった。
わたしがお父様のために泣く泣く結婚したのと同じように、ザカライアさんだって商売のために渋々結婚したはずだ。だから、毎夜の営みだって交わす言葉もほとんどなく、世間体のために事務的に行われている――はずだ。
そして、そういう風に繋がった妻なんてものは、夫にとっては邪魔くさくて仕方のないもののはずだ。特にわたしなんかは、三〇を前にしたザカライアさんからすれば乳臭い小娘そのもので、つまらない相手だと思われても仕方がないはずだ。
だって、世間では概ねそんな感じだ。聞こえてくる噂で知った世間は、そんな感じだった。少ないつながりの扉だった小説だって、愛のない結婚はそんなものだと高らかに告げていた。
けれども、現実はどうだろう。目の前にいるザカライアさんは、なんだか取るに足らない小娘であるわたしを、必死に傷つけまいと言葉を選んでいるように見えるのだ。
だからわたしは「アレッ」となった。
「……スクールで……妙な噂に悩まされているとか」
「ええ、そうですの……。わたしの親友にも相談したりしたんですけれど……地道に否定して行くしかないと」
「まあ、噂はそういうものだ。……しかし根拠のない噂はじき消える」
「そうだと、いいんですけれど」
――これって、励まされているのかしら? わたしはザカライアさんの言葉の意図がつかめずに戸惑った。
結局、メアリーはザカライアさんになんと言ったのだろう? それを聞いたザカライアさんはどう受け止めたのだろう? ……すべてが霞がかったモヤの中にあるようで、どう反応するのが正解で、なにが間違っているのかがわからない。
「……ごめんなさい。先に妙な形で噂が耳に入るよりは、と思ったのですけれど……気を遣わせてしまいましたわね」
「……君が謝ることはない。そんな悪意のある噂を流す人間が悪いんだ。気にしないわけには……いかないと思うが、私はそんな噂に騙されたりはしない」
「そうおっしゃっていただけると、心強いですわ」
「なんだったらしばらくスクールを休んでもいい。嫌なら辞めても構わない」
ザカライアさんの言葉にわたしはまたおどろいて、目を丸くしてしまう。まるで言っていることがわたしに優しい――そして過保護な――メアリーみたいで、びっくりしたのだ。
「大丈夫ですわ。お気遣い、ありがとうございます。けれど、休んだり辞めたりするほど、悩んではいませんから……」
この言葉は事実だった。たしかにライナスとタビサ・ロートンは気持ちが悪いというか、不気味というか……とにかく真正面から係わり合いになりたくない類いの人間ではあるが、噂自体はそれほど気にしていなかった。最も気にかかっていたのが、夫であるザカライアさんの耳に入ることだった。それが解消された今、気にすることはほぼないも同然である。
けれどもザカライアさんはまた眉間をきゅっと狭めて、なにかを――怒りを?――こらえるような顔をしてわたしを見る。わたしはそれに精一杯笑顔で返した。満面の笑みではなく、「悲劇のヒロイン」っぽい、ちょっと困ったような、それでいておしとやかな雰囲気の笑顔だ。
しかしザカライアさんの顔は晴れることはなかった。どこか苦しそうで――疲れた顔で、わたしを見る。
そしてその夜の営みも初夜からさほど変わりはなかったのだが、わたしはザカライアさんの表情が気にかかって、いつも以上に行為に集中できなかったのであった。
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