(14)

 不意に、気づいてしまった。ザカライアさんがなんだか疲れている、ということに。


 本当にフとした瞬間に気づいた。なにか明確なきっかけとかがあったわけではなく、フッと「あれ? お疲れなのでは?」と思ったのだ。


 蝋燭の火に照らされた、薄暗い部屋の中でザカライアさんの顔を改めてまじまじと見つめる。相変わらず端正な面立ちをした男性だ。商会の跡取りで顔もいいとなれば、女なんて選り取り見取りじゃないだろうか? けれども彼は今やわたしの夫である……。


 そんなザカライアさんの目元はなんだか隈があるように見えた。本当にうっすらとで、こんな暗がりでなければもう少しハッキリと見えそうなていどの隈が。


 暗がりでは黒く見える切れ長の目も、どこか元気がないように見える。最中はいつも虚ろな感じなのだが、それにしたって限度があるだろうという感じだ。明らかに疲労を訴える目だ。


 わたしはザカライアさんのお仕事についてよく知らない。けれども、朝早くに出勤しているのは知っている。そうやって朝から働いて、夜には家に帰ってきて、新妻であるわたしの相手を毎夜している……となれば、疲れるのは必然ではなかろうか?


 夜の営みが何時頃まで続いているのかはわたしは正確に把握していないが、昼も働いて、夜もある意味働いているのでは、睡眠不足などに陥っていても不思議ではないのではないだろうか?


「なんだか……お疲れではありませんか?」


 夫であるザカライアさんとの言葉数が少なくても、「悲劇のヒロイン」ごっこに浸っているわたしはどうってことはなかった。なんなら自分の気持ちを考えもしない夫を空想して「おいしい」材料にしていたくらいだ。


 けれどもザカライアさんの顔があまりにも「疲れている」と言っていたので、わたしは気がつけば、営みの前にそんな声をかけていた。


「仕事が……立て込んでいるんだ」

「そう……ですか。……お体には気をつけてくださいね」

「ああ。……ありがとう」


 わずかな沈黙を挟みつつの、絞り出すような、やっとの会話だった。


 ザカライアさんの言っていることがどこまで本当なのかわたしにはわからなかった。「悲劇のヒロイン」的に「おいしい」展開なのは愛人の家に通っているから……とかなのだが、こんなにも元気がないのはなんだか「違う」気がした。本当に愛する人のところに行けているのならば、むしろ元気になるだろう……と思うのは、子供の考えだろうか。


 もし、ザカライアさんに愛人がいたとすれば……作るとすれば、いったいどんな女性なのだろうか? タビサ・ロートンから変なところを抜いた、わたしよりも頭がよくて地に足のついたしっかり者の女性だろうか? ……と、そこまで考えて、それって親友のエリーじゃないだろうかと思った。


 わたしはいつもと変わらない閨の時間を、そうやってくだらない考えに費やした。


 夜の営みについては、段々と麻痺してきたのか鈍麻してきたのか、そもそも比較対象がないこともあって、慣れてきた。妻を縛り上げて……だなんて異常だという自覚はあった。けれどもザカライアさんに物申すまでは行かないのが現状である。


「別に痛くないし……」「夫がしたくてしていることだし……」そんな風に自分で自分の逃げ道を作って、言い訳をして、わたしはザカライアさんに苦情を申し立てるというイベントから逃げ回っている。……そういう自覚はあった。


 一方、「悲劇のヒロイン」ごっこをしている身としては、今の状況は「おいしい」。だって、夫がよくわからないのだ。なにを考え、なぜこのような行動に出ているのかわからないのだ。わたしはそんな夫に翻弄される、「悲劇のヒロイン」……そう考えるとニヤニヤと心の中で笑ってしまう。


 スクールでのわたしも、一事が万事その調子だった。


 クスクス笑いはなくなったけれども、ヒソヒソされていることには変わりがない。「禁断の三角関係」……そんなものの仲間に入れられてもちっともうれしくない。けれども新たな恋人ふたりが燃え上がる材料という被害者にされていると思うと、その虐げられっぷりは「悲劇のヒロイン」そのものじゃないの、と満足感を覚える。


 それでも、まあ、タビサ・ロートンとわたしに取り合われていると思い込んでいるライナスの態度は純粋に気持ち悪かったし、タビサ・ロートンも以下同。


 けれども、噂なんてわたしの力じゃどうしようもない。ふたりの思い込みだって、わたしの力でどうこうできるものでもないし、する義務もない。


 となれば、わたしはただこの嵐が過ぎ去るのを「悲劇のヒロイン」ごっこでもして待つしかないのだ。


 申し訳ないのはエリーや一部の生徒たちだろうか。ライナスとタビサ・ロートンがおかしいということを理解してくれて、わたしのことをしきりに心配してくれるのだ。それがうれしかったので、わたしはわたしが思い描く「悲劇のヒロイン」のように、ちょっと困った顔をしつつなんでもない風に振る舞った。


 わたしの理想の「悲劇のヒロイン」は人前では泣かない。陰でこっそりと泣くのだ。……現実のわたしはと言えば、「悲劇のヒロイン」ごっこに満足していて別に物陰で泣くようなことはなかったのだけれど。


 けれども心配なのは「禁断の三角関係」の噂だ。「禁断」とつくのは、三角関係の一角を担う――勝手に担わされている――わたしが既婚者であるからにほかならない。スキャンダルだから、「禁断」なのだ。……そのスキャンダルはまったくの虚報であるわけなのだが。


 今はまだスクールの中を漂っているだけの噂であるが、これが外に漏れたら大変なのはわかっていた。わかっていたが、噂をどうにかするなんて、雲をつかもうとするようなものだ。


 わたしは困った。親友であるエリーとも色々と話したが、結局は地道に否定して行くしかないというところにしか落ち着かなかった。


 わたしは困った。困ったので、仕方なく、恥ずかしかったが、わたしの乳母で今は屋敷の使用人として働いているメアリーに、事の次第を打ち明けることにした。


 わたしの実母よりも母親らしいメアリーは、目を白黒させておどろいたあと、静かに怒っているようだった。


「まあ、仲睦まじい奥様と旦那様を引き裂こうだなんて! 卑劣千万!」


 わたしはどう突っ込めばいいのかわからなかった。わたしとザカライアさんは別に仲がいいわけではない。たしかに、嫁いできてから毎晩営みはあるが、それは世間の常識とか、義務に対して行っているものだろうことは容易に想像がつく。


 けれどもいつだってわたしのことを一番に考えてくれているメアリーの、その「わたしは夫に愛されている」=「わたしは幸せ」だという認識を壊したくなくて、黙り込んだ。


 メアリーはそれをどう受け取ったのか、今度は怒りを引っ込めて、悲しそうな表情を作る。


「大丈夫ですよ、奥様。旦那様はそのような噂に惑わされたりしませんから。けれども一応、耳に入れておいた方がいいかもしれませんね。……そうですね、奥様からでは角が立ちますでしょうから、メアリーからそれとなく伝えておきましょう」

「うん……わかった。そうして、メアリー。……ありがとう。助かるわ」


 スクールの噂がなんらかの形でザカライアさんの耳に届く前に、どうにか先回りができた。わたしはそのことにばかり気を取られていて、メアリーの言葉にホッと胸をなでおろす。そうするのはまだ早い、ということを、このときのわたしはまったく考えが及びもしなかったのであった。

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