(18)

「私の噂についてはどれだけ知っているのかな」


 唐突なザカライアさんの質問に、わたしは言葉を詰まらせる。ザカライアさんに関する噂がどれほどあって、その内のどれだけ知っているかなんてことは、もちろんわたしにはわかりはしない。しないが、ザカライアさんについて知っている唯一の、恐らくは彼にとって不愉快な噂は――。


「妻を余所の男に寝盗られたぼんくらな夫――くらいは、聞いていてもおかしくはないよね。親切な友人がいるなら、耳に入れていれてもおかしくはない」


 そう。わたしが知っているザカライアさんに関する噂はそれだけだった。「ぼんくら」とかいう言葉は置いておいても、ザカライアさんの前の奥さんが不倫をしたので離婚したという事実は、お父様から聞いていた。だから、その噂についても半分くらいは事実なんだろうなと、薄ぼんやりと思っていた。


 確信があったわけではないが、しかし疑うほどの理由もなかったのが、わたしたちの今の関係そのものの、現実だった。


「その噂は――」

「……残念ながら、事実だよ。今はもっと面白おかしい尾ヒレがついているだろうけれども、真実だけを抜き出せば、そういうことになる」

「そう、なんですか……」


 それ以上の答えをわたしは出せなかった。これ以上、どう答えればいいのやら見当もつかない。「大変でしたね」と労わるのもなんだか違うような気がして、結局わたしは臆病にだんまりを決め込むしかないのだった。


「君に最初に真実を話しておくべきだったね。私の噂で不愉快な思いをしただろうから」

「いえ、その……まるきり信じていたわけではないので、別に不愉快な思いなんて……その、それほど」

「……『それほど』……か」


 なんとなく嘘は言えなくて、でも真実そのままの気持ちを伝えるのも憚られて、結局わたしの言葉はひどく曖昧で、逆にザカライアさんを不愉快にさせてしまったのではないかと内心で怯えた。


 ザカライアさんの噂に端を発した、わたしへの軽いイジメのようなクスクス笑いは、今思い出しても愉快なものではなかった。わたしの結婚は不幸なものだったと決めつけるような嘲笑。反論したくても、当のザカライアさんは「ああ」なわけだし……と悩んだのは昔の話。


 今だったら華麗に「悲劇のヒロイン」として「おいしい」材料にしてやれるのにな、とわたしは考える。


 しかし今は目の前のザカライアさんと話しているんだと思い出し、あわてて意識を現実へと返す。わたしから少し先にいるザカライアさんは、難しい顔をしているかと思ったが、意外にも困ったような、やや弛緩したような顔をしていた。


「不甲斐ない男と結婚したと、嘲笑わらわれたかい?」

「いえ、その……少しだけ……です。でも、わたしは気にしていないので……特に、なんとも」


 わたしの言葉の半分は嘘だった。気にしていたのは本当で、気にしていないのも本当。過去の話と現在の話をごっちゃにして、意図的にわたしは言葉にする。


 なんとなく、困ったように微笑むザカライアさんを傷つけたくなかった。自分が傷つくのはいいけれど――「悲劇のヒロイン」的にはおいしいし――ザカライアさんが傷つく姿を見るのは、なんだか居心地が悪い。


 ザカライアさんが絵に描いたような「ひどい夫」であれば、こんな感情を抱くことはなかっただろう。それこそ、ロマンス小説に出てくる記号的な「ひどい夫」であれば。


 けれども現実のザカライアさんは悪い噂に苦悩しているような顔をして、そしてなによりわたしがそれで不愉快な思いをしていないかどうか、ひどく心配しているように見えた。……それは、ぜんぜん「ひどい夫」なんかではない。むしろ、「優しい夫」ではないだろうか。


「私にもっと男としての甲斐性があればよかったんだけれどね」

「『男としての甲斐性』……?」

「もっと、夫として、男として、妻を満足させられるだけの器量があればよかったと、今も思うよ」

「『今も』……。その、前の奥様の――」

「ああ、違うよ。今の私の奥さんは君だろう? 私は君を不足なく暮らせるように手配していたけれど、君の心まではどうにもできていない。それが現実だ。……違うかい?」


 わたしはなにも言えなくなって、しかしかろうじて首をゆるく横に振った。けれどもそれが嘘にまみれた仕草だということくらいは、年長者のザカライアさんにはお見通しだっただろう。


 どうすればいいのか、わたしは急にわからなくなった。「悲劇のヒロイン」ごっこをしていれば、わたしはそれで満足だった――はずなのに。


 わたしの冷徹な部分は、ザカライアさんの問いを卑怯だと非難する。けれどもわたしの心の大部分は、ザカライアさんの言葉を「卑怯」のひとことで切って捨てられなかった。


 どうしてか、わからない。わからない、けど、胸がざわざわと騒ぐ。


 そんなわたしを置いて、ザカライアさんは自嘲的な笑みを浮かべたまま、おしゃべりを続ける。それはザカライアさんにとっては、他愛ないひとりごとのようなものなのかもしれない。けれども、だれかに告げずにはいられないような、だれかに吐きださずにはおれないような――心の傷を孕んだひとりごと。


「最初の妻もね、父に言われて縁談を受けて結婚したのだけれど――結局、父と上手く行かなくて家にいるのが嫌になったと言われたよ。私が上手く間に入れたら良かったんだろうけれど……そうはできなくて。……そう、どうしても、できなくて……。それでそのうちに妻は外に男を作って出て行ってしまった。あんな家に戻る気はないと。だから、どうしようもならなくなって、結局は離婚したんだ。……そう、私は不甲斐ない夫なんだよ」


 ああ、そんなザカライアさんの姿は、ひどく知っている。馴染みのあるものだ。


 彼は――傷ついたわたしそのものだった。


「私は――こんな歳になっても未だに親を恐れる子供と同じなんだ。そんな幼い子供は、結婚すべきではない。私は――君にふさわしい夫じゃないんだ。……こんなこと、今さら言われても困るだろうとは思う。けれども、これは純然たる事実なんだ。私は――だれかと家庭を築く自信が……ない」


「だから、君が外に男を作っても、今度は父には上手く隠し通すよ」……そんな言葉で話を締めくくって……勝手に、締めくくって……ザカライアさんは汚れたタオルと水の入ったボウルを手に寝室から去って行った。


 残されたわたしはひとり、まるで雷に打たれたかのような衝撃のままに、硬直してザカライアさんの背を見送るしかなかった。

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