(5)

「どこにも逃げないで」

「縛られている姿……とてもよく似合っているよ」

「ああ、びっくりしているんだね。そんな顔も可愛いよ」

「逃げたりしないで。優しくするから」

「優しくする……傷つけたりしない」

「欲しいものだってなんだって買ってあげる」

「動けない? 動かない? まあ、どちらでもいいけれど……」

「ああ、どうせならその雌鹿のような手足を……」

「目を見開いているね。綺麗なグリーンだ。でも、その目を……」


 豹変した――と言っても過言ではないザカライアさんを前に、わたしはただただ、この夫となった男性に圧倒されるばかりだった。


 ザカライアさんは素早く、器用にわたしの手首をリボンで縛り上げて、そのまま夫婦のための大きなベッドへと押し倒した。そしてわたしの両腕を上げさせて、縛られた手首を頭の上へと持ってこさせる。そしてその手首にぐっとザカライアさんの片手がのしかかった。


 ザカライアさんはぶつぶつと何事かをずっとつぶやいている。どこか病的な雰囲気のある多弁ぶりに、わたしは声もなく、じっと息をひそめるようにして、のしかかるザカライアさんを見るばかりだ。


 ロマンチックな一夜は諦めていた。だって、わたしたちは愛し合って結婚したわけではないから。


 だから、想像していたのは事務的な夫婦の営み。肌と肌を触れ合わせても、冷たい一夜。もしかしたらひどくされるかもしれないという懸念はあったけれども、それは恐ろしさゆえに、できるだけ考えないようにしていた。


 けれども――けれども、今、目の前で繰り広げられている「これ」はなんなんだろう? わたしの頭の中は絡まった糸のようにごちゃごちゃとしていて、容易にほどけそうにないほど、混乱していた。


 ザカライアさんはわたしが押し黙ったままであっても、まったく気にしていないようだった。似たような言葉を、単語だけ変えて繰り返し同じようなセリフをつぶやき続けている。


 そんなセリフを大別するならば「逃げるな」「可愛い」「手足や目をどうにかしたい」という感じだろうか。


 そんな風に分類してみたところでなにかが変わるわけではなかったし、意外と冷静な自分に気づいて変な笑いが込み上げてきて、それを抑え込むのが大変だった。


 ザカライアさんの体重が、わたしの手首のみならず、脚にもかかる。痛くはないが、ちょっとぞっとするような感覚だった。


 そのまま、ザカライアさんの大きな片手がわたしの薄いネグリジェの中をまさぐる。器用な手つきでわたしを愛撫する。


 ザカライアさんは「優しくする」と言った通りに、行為の最中は優しいものだった。ただ営みのさなかにあっても、よくわからない上に物騒に響くセリフを、延々と吐き続けたのには正直参ってしまった。


 その瞬間は事前の知識通りに痛かった。思わず短い悲鳴を上げてしまうほどに。……ザカライアさんはそれを見て、とても悲しそうな顔をしていた。なぜだかは、さっぱりわからない。


 あの瞬間まで処女おとめであったわたしには、ザカライアさんの行為を比較する対象を知らない。それでも、ザカライアさんの行為は丁寧で、優しくて、決して独り善がりではなくこちらを慮っているのがわかって――。


 ……本来であれば、幸せな気持ちになれたのだろう。だが、ずっとずっとずーっと、延々と似たようなセリフを壊れた蓄音機がごとく聞かされ続けたわたしは、ザカライアさんが怖くて仕方がなかった。


 お父様に隠れて読んだ、ちょっと大人のロマンス小説では最中の最後に「天国へのぼりつめる」なんて表現が出てきたが、わたしの初夜はそれとはほど遠いものだった。見えたのは天の楽園ではなく、地獄の釜の蓋を覗くようなものだった。


 優しくしてくれているのはわかったが、怖かった。丁寧にしてくれているのはわかったが、痛かった。こちらを慮っているのは伝わってくるのだが、異物感がすごかった。


 それはザカライアさんが悪いのか、単に初夜とはそういうものなのか、わたしには判断がつかなかった。


 長かった。わたしの感覚では恐ろしく長かった。


 しかし行為が終わりを告げても、夜が明けている……なんてことはなく、まだ深い時間にあることがわかった。


 ザカライアさんがわたしから離れて行く。手首の拘束もいつの間にか解かれていた。妙に、二の腕と肩が疲れている。手足を動かそうとしたが鉛のように重く、今すぐにでも泥のように眠ってしまいそうだった。


 行為が終わってしまうと、「あれは夢だったのかしら」と思った。思ったが、体内に残る異物感が、つい先ほどまでの行為が現実にあったことだと伝えてくる。


 わたしは、行為の最中や、終わってしまったあとに自分が悲しみに泣かないか心配だった。「愛してもいない男に体を暴かれるなんて!」みたいな気分にならないか、結構気にしていた。


 しかしザカライアさんのよくわからないつぶやきに圧倒されて、そんなことを考えている暇は一切なかった。終わってしまえば呆気ない。


 けれどもこんなことを子供ができるまで繰り返して、なんだったら子供が生まれたあとも繰り返されるのかと思うと、なんだひどく気が重くなった。


 そしてわたしは気絶するように眠りの底へと落ちて行った。



 ――翌朝。メアリーに揺さぶられてわたしは目を覚ました。昨夜のことを瞬時に思い出して自分の体を見る。あれこれの汚れは綺麗にぬぐわれていたようで、不快感はない。しかし変わらず異物感は体の中に残っていたし、なんだったら脚を動かすとちょっと痛い。寝間着は薄っぺらい白いネグリジェから、普通の厚みのゆったりとしたナイトドレスに着替えさせられていた。


「奥様、本日のスクールはお休みになられますか?」

「うん……そうする」


 メアリーがわたしに声をかけて額に手のひらを当てる。メアリーの手のひらが妙に冷たく気持ちよく感じられたし、体はだるさを訴えている。もしかしたら微熱があるのかもしれない。


 加えて、体内に残る異物感やかすかな痛みを抱えたまま、スクールへ赴くのは、なんだか恥ずかしいような気がした。


 ハア、と息を吐けば、やはりいつもより熱を持っているような気がする。


「今日は一日、お休みになられた方がいいでしょう」

「あの……ザカライアさん……じゃなかった。主人は?」

「旦那様は朝早くに商会の方へ行かれました。帰りは遅くなるので食事は先に、と」


 メアリーはちょっと困ったような顔をして言った。わたしを不憫がっていることが伝わってくる。新婚初夜を終えたばかりなのに、それ以上の夫婦の営みは不必要と取られかねないザカライアさんの言動を、メアリーはわたしが不憫だと捉えているのかわかった。


 わたしの方はと言えば――ちょっとホッとした。あんな、よくわからない物騒なセリフの数々を聞かされたあとだったので、どういう顔をして会えばいいのかわからなかったのだ。だから、今日一日は顔を合わせずに済みそうだとわかって、安堵したのである。


「メアリー、お腹すいた。この部屋で食べてもいい?」

「あらまあ。……今日だけですよ」

「うん。わかってる」


 わたしはメアリーが寝室を出て行くその背を見送ったあと、再びベッドに潜り込んだ。そしてこれからの生活を思い浮かべようとして――なんにも想像できなかった。空想することは得意なはずなのに、なぜかわたしの頭の中は真っ暗闇に支配されていた。


「これから……どうなるのかしら」


 わたしのつぶやきは天蓋に当たるばかりで、だれにも聞こえはしないのだった。

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