(4)

 ぼやぼやとしているうちに、気がつけばディナーも終えていよいよ夜になってしまった。


 次にわたしに待ちかまえていたのは、初夜。これから夫となったザカライアさんと同じベッドに入って――その、相応のことをしなければならない。……つまり、わたしは今から数時間後には処女おとめではなくなる、ということ。


 心の通じあっていない相手に体を開くという行為は、わたしの気を重くさせた。わたしはつい数日前まで、そういうことは愛しあう夫――つまり、ライナスとするのだと思っていた。ロマンチックで甘い一夜を過ごして、子供を授かるのだと信じ込んでいた。


 けれども今、薄暗い夫婦の寝室にいるわたしの夫はザカライアさんで、彼とはつい数時間前に顔を合わせたばかり。そんな相手と一夜を過ごし、わたしは処女おとめじゃなくなる。


 急に、薄ら寒い気持ちになって、心細くなった。乳母ナースだったメアリーはこの屋敷のどこかにいるのだろうが、夫婦の寝室へわたしを送り届けてもらってから、顔を見ていない。


 真っ白でレースがたっぷりだけれど、薄絹で心もとないネグリジェの布地をぎゅっとつかむ。「大丈夫」。小さな声でつぶやく。


 メアリーはここにくるまで、しきりに初夜への不安を呈するわたしを安心させようとしていた。


「大丈夫ですよ。旦那様は初めてというわけでもありませんし、きっと優しくしてくれます。奥様は大人しく、旦那様に身を委ねていれば終わりますから……」


 優しく……してくれるのだろうか? 初めては「痛い」と聞くし、血が出るとも聞いた。数時間前までまったく見ず知らずだった男性に体を開く行為に対する不安とは別に、そういう不安がわたしの中にはあった。


 それと、痛みで暴れたり、悲鳴をあげたり、蹴ったり、失神したり……つまり、醜態を晒さないか心配で仕方がなかった。


 それに、単純に痛いことは嫌だ。だれだってそうだろう。痛みを経験しなければならない状況からは、だれだって逃れたいはずだ。


 けれどもそんなことは言っていられない。ザカライアさんが夫婦の寝室へやってきたら――わたしは。


 不意に顔を上げると寝室の扉が開いていて、そこにザカライアさんがいた。思考に没頭していたせいか、まったく音が聞こえなかったので、わたしはびっくりして悲鳴を上げそうになった。……しかしどうにか、それを喉奥へと押し込む。


「すまない。待たせたか」

「いえ……」


 婚姻の儀式の際にも聞いた、透き通るような心地のいい声。けれども今のわたしには、不安しか呼び込めない、明らかな男性の声。


 ザカライアさんがこちらへと近づく音がするが、わたしはそれが見ていられなくて目を伏せて軽くうつむく。靴を脱いで、そろえた裸足の爪先を見つめる。けれどもそんなことは、単なる時間稼ぎにすらならなくて。


 うつむいた視界に、ザカライアさんのぴかぴかに磨いた革靴の先が目に入る。ゆっくりと顔を上げて、ザカライアさんを見る。スクールにいれば女の子たちが大騒ぎしそうな、端正な面立ち。けれどもその顔は、どこか強張っているような気がして、わたしは絶望的な気分になる。


 ……ああ、そうね。わたしばかり「好きでもない人と」と思っていたけれど、ザカライアさんだってそうなのよね。


 わたしがこれから愛のない営みをするように、ザカライアさんもまた、愛のない行為をしなければならないのだ。それを苦痛に思って、顔を強張らせていたとしても、なんら不思議はない。


 そう思うと心細さが増して、叫び出したくなった。メアリーに綺麗に髪を整えてもらって、薄化粧をして、卸したてのネグリジェに身を包んで送り出してもらったけれど、なんだかそのすべてが滑稽な気がして、悲しくなった。


 涙が浮かんでしまいそうになるのを隠そうと、うつむきがちになる。ザカライアさんはわたしの視界の外に立ったまま、ナイトテーブルに置かれたお酒の瓶を手にしたらしい音が、わたしの耳に入る。


 お酒を呷らないとやってられないってことなのかしら? つい数日前まで夢見る乙女そのものだったわたしの心の表面は、ひっかかれたような痛みを訴える。しかし、ザカライアさんはトクトクとお酒をグラスへ注ぐと、それをわたしに差し出したのだった。


 わたしはゆるゆるとまた顔を上げる。琥珀色のお酒が注がれたグラスを差し出すザカライアさんの目は、やっぱりどこか硬い印象を抱く。


「飲むといい」


 そう言われてしまえば、「嫌です」と突っぱねることはできなかった。わたしはこれまで、社交の場でもほとんどお酒を口にしたことがなかった。お父様もそうだが特に叔母様が「子供の内から酒に慣れると馬鹿になる」と信じてわたしに言い聞かせていたから、という理由もあった。


 だから、きっと、このお酒を口にすればわたしはたちまちのうちに酔っ払ってしまいそうな気がする。酔っ払った状態でそういうことを営めるのかはよくわからなかった。


 しかし、困惑しつつもわたしはザカライアさんからグラスを受け取る。グラスの中の琥珀色の液体が、揺れる。立ち上る芳醇な香りは嫌いではない。


 わたしは腹を括り、えいやっとひと息にグラスを呷った。……呷ったあとで、別に一度に飲み干す必要はなかったのだと気づいたが、時すでに遅し。喉から胃のあたりまで、燃え立つような感覚があって、わたしは思わず咳き込んでしまった。


「大丈夫か?」


 少し、困惑のにじんだ声がわたしのつむじに降りかかる。ゲホゴホと盛大に咳き込み、丸くなったわたしの背中をザカライアさんが撫でているのがわかった。メアリーよりもずっと大きく、硬そうな手だった。それが、何度もわたしの浮かんだ背骨に沿って上下する。


「す、すいません……」

「いや……」


 言葉数はやはり少ない。普通の夫婦だったら、ここできっと穏やかな会話とかをするんだろう。けれどもわたしは暗闇の中にひとり放り込まれたように、口にするべき話題がさっぱりわからなかった。


 わたしは流行りに敏いわけではなかったし、そもそも異性で、一二も離れた相手の話す流行りの話題を、ザカライアさんが楽しめるとも思えなかった。……そこで楽しませられるような、巧みな話術の持ち主であったとすれば、わたしは恐らく、ライナスにはフられてはいないだろう。


「あの……不束者ですが、これからどうぞよろしくおねがいします……」


 散々迷った末に、わたしはいつかどこかで読んだ小説の言葉を引っ張り出す。それが、この場に見合った、もっとも適切な言葉なのかまではよくわからなかった。けれども続く沈黙に耐えきれず、それを埋めるように言葉を発したのだった。


 しかしザカライアさんの目はなぜか泳いだ。あからさまにわたしから見て左の方に視線をやっている。端正な顔はますます強張り、薄暗がりのなかで黒っぽく見えるザカライアさんの目から、感情が失われたような気がした。


 なぜザカライアさんがそのような反応を見せたのかどうかわからず、わたしは当惑する。……そんなに変な言葉だったのだろうか? いや、そんなはずはない……はず。


 そうして困惑の色を浮かべるわたしの前で、不意にザカライアさんが動き出す。感情をうかがえない目をしたままで、のろのろとズボンのポケットをまさぐる。なにをしたいのか、これからなにをしようとしているのか、やはりわたしにはさっぱりだった。


 やがてザカライアさんのポケットからなにか細長いものが出てきた。絹のように表面が美しいそれは、真っ赤なリボンに――わたしには見えた。


 そしてザカライアさんは、透き通った心地のよい――無機質な声でこう言った。


「これで君の手首を縛りたい」

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