(3)

 その日はあれよあれよという間にやってきた。


 レースをふんだんに使った、真っ白なウェディングドレスに袖を通す。もちろんひとりでは準備なんてできやしない。未婚の証として下ろしていた子供っぽい髪をアップにしてシニョンを作り、白ユリの生花をそこに差す。


 たっぷり時間をかけて化粧を施されて、最後にどこか不備がないか数人がかりで全身をチェックされる。それが終わったら、もう残りの時間は少なくて、慌ただしく白いベールをかぶせられた。


 わたしはそれをぼんやりとした顔で眺める。


「素敵ですわ……お嬢様。いえ、これからは『奥様』とお呼びすることになるんですね……」


 他のメイドと共に準備を手伝ってくれた老齢の乳母ナース・メアリーが涙ぐみながらそう言う。わたしの身の上に同情しているのかしら? それとも、単純にわたしの成長を喜んでいてくれているのかしら? ……わたしには、両方のような気がした。


 メアリーは輿入れするわたしについてきてくれる、唯一の人間だ。先方のジョーンズさんは「不自由はさせないから使用人は必要ない」とおっしゃられたそうだけれど、わたしが不安に思っているのを察したのか、お父様は交渉してメアリーを嫁ぎ先へ連れて行くことを了承させた。


 情けないことに結婚への不安から体調を崩し気味で、食も細くなったわたしをメアリーは根気よく慰めてくれた……いつかの幼い頃のように。


「大丈夫ですよ、お嬢様。メアリーがいますからね」


 わたしの手を握ってくれるメアリーの手の甲には静脈がくっきりと浮かび、シミがたくさん浮いていた。不意にその手の小ささにおどろいて、次にわたしが大きくなったのだと気づいた。


 子供らしく髪を下ろして、ふくらはぎまでのスカートを能天気に翻していたわたし。けれどもこれからは人前では髪を下ろしちゃいけないし、スカートの丈はかかとまで。……わたしはこれから、「大人」にならなきゃいけないんだ。


 三年前に初めて月のものがきたときには、「これでわたしも大人の仲間入り」なんて思ったけれども、現実にはまったく、そんな風にはなれていなかった。


 けれどもこれからは、そうはいかない。いきなり、女主人として屋敷を采配できるとまでは自惚れてはいないが、せめて妻らしく夫を支えて行かなければならない。自分の人生だけではなく、他人の人生を慮る心を持たなければならないのだ。


 それが、途方もない道のように、わたしの前に横たわっているように錯覚する。……そんな風に感じるのは、わたしが子供だからなのか――それとも。


 不安はたくさんあった。夫となるザカライアさんにわたしは愛されるのかどうか。そもそも、夫がわたしを愛する努力をしてくれるのかどうか。……愛人はいるのか。それとも今後作られたりはしないだろうか。


 家庭生活への不安は、山ほどあって、ひとつひとつ思い浮かべていると朝になってしまうほどだ。


 夫となるザカライアさんへの不安が一番だったが、一方的とも言える業務提携のための結婚であるがゆえに、婚家でわたしがどういう扱いをされるのか、ということも気になる。


 ジョーンズさんの家は、わたしの家と同じ父ひとり子ひとりが長く、成人して久しいザカライアさんはお義父様とは既に別居している。わたしはザカライアさんの家で暮らすことになるので、義父となるジョーンズさんとはそう顔を合わせることはないだろう。わたしをいびるようなお姑さんもいない。


 ……となると、やはり最大の問題はザカライアさんだ。ザカライアさんがわたしに対してどう出るのか、そこに今後の――わたしの人生のすべてが懸かっている。


「おお……綺麗だよ、アン」


 ホールでは緊張した面持ちでお父様たちが待っていた。わたしから見て左手にお父様、右手には義父となるジョーンズさんと――夫となるザカライアさんらしき人物が立っている。真正面には結婚誓約書が広げられた小さなテーブルがあり、そのさらに奥には中年の神父様がいた。


 わたしは初婚だけれど、ザカライアさんにとっては二度目の結婚だ。最初の結婚が無惨に終わったこともあってか、ジョーンズさんは「式は挙げない」と言ってきた。


 正直に言って、落胆しなかったかと問われれば、「そうかもね」と言ってしまうだろう。愛のない結婚を――これから愛が芽生えるのかすらわからない結婚を、表面だけでたくさんの人に祝福されても、それはそれで複雑だ。


 バージンロードを歩くこともないし、ライスシャワーを投げられることもない。でも真っ白の、素敵なウェディングドレスを一時でも身にまとえたことだけは、純粋にうれしかった。


 裾の長いウェディングドレスを足で踏みそうになりながら、わたしはどうにかお父様たちのいる場所へと向かう。


 ベールを被っていることをいいことに、ちらりと横目でザカライアさんを見た。お父様が「男前」と表現した通り、端正な面立ちの男性だった。髪の色は黒で、瞳の色も黒っぽい。タキシードに包まれた手足は軟弱な印象はなく、暑苦しさもなく、すらりと長い。


 けれどもどこか、冷たい印象のある横顔で、わたしの心は不安でいっぱいになった。


 わたしとザカライアさんは、ものすごく年が離れているというわけではない。けれども、ザカライアさんからすれば、わたしなんてそこらの小娘と同じだろう。わたしが将来も有望な美少女だったら、話は違うかもしれないが……。


「それでは始めましょうか」


 柔和なお父様と違って、いかにも厳格そうな顔をしたジョーンズさんが銀時計を気にしながらそう告げる。わたしはお父様にうながされるまま、ザカライアさんの隣に立った。


 神父様が静かに誓約の言葉を読み上げる。「病めるときも健やかなるときも……」今まで参列した結婚式や、小説の中で見た通りの言葉が繰り返される。


「誓います」口紅をたっぷり塗った唇を動かすと、なんだか違和感みたいなものがわたしに襲いかかってきた。その言葉も、どこか上擦っているような気がして、恥ずかしくなる。……そしてその言葉をもって、わたしは初めてザカライアさんの声を聞いた。透き通るような心地のいい声だった。


 次に結婚誓約書にサインをする。サインを綴る手は情けないほどに震えていて、思ったよりも汚い文字になってしまう。けれどもこの場でそれを指摘する人間はいなかった。この時点で手汗をかいていたが、手袋に包まれていたおかげで、ペンが滑るようなことはなかった。


 淡々と儀式は進み、結婚指輪を交換すれば、最後に「誓いのキスを」と言われる。真正面に向かい合ったザカライアさんが、わたしのベールをそっと上に持ち上げて、うしろへと流す。ベール越しではなく、直接、夫となる――いや、すでに夫となったザカライアさんを見た。


 釣り長の黒っぽい瞳からは、なんの感情もうかがえなくて、わたしは静かにショックを受けた。「愛のない結婚」。そんなことは、わかりきっていたはずなのに。なのになぜだか、今すぐホールを飛び出して、幼子のようにわんわんと泣き叫びたい気持ちになった。……もちろん、そんなこと、できるはずもないのだけれど。


 キスは初めてじゃない。恋人だったライナスと何度もしたことがある。柔らかくて、温かくて、幸せな気分になれるキス。けれどもザカライアさんとの初めてのキスは、妙に冷たく感じられた。


 ――あ、口紅がちょっとついちゃってるわ。


 離れて行くザカライアさんの唇を見て、そんなことをのん気に考える。


 その後のことはよく覚えていない。神父様のありがたいお説教を聞き流し、それも終わるとわたしはせわしなくウェディングドレスのまま車に押し込まれて、着の身着のまま、身ひとつでザカライアさんの家へと向かったのだった。

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