(2)

「え? え? ……も、もう一度おっしゃっていただけませんか? お父様……」


 呆然として意識を飛ばしながらすごすごと屋敷へ帰ってきたわたしを呼び出したのは、他でもないお父様だった。


 立派な書棚に囲まれ、つるりと美しく磨き上げられた机に両肘をついて難しい顔をしているお父様。ライナスの心がこちらから離れていたことを一切気づけなかったわたしでも、「嫌な予感」というものをひしひしと感じてしまう。それくらい、お父様の顔は深刻そのものだった。


「……アン、お前にはジョーンズさんのところへ嫁いでもらう。お前が『うん』と言うのならば、明日にでも」


 深いため息とともに、心痛を抑えるような声でお父様は言う。続いて、眉間に目いっぱいシワを寄せたまま、お父様は事業が思わしくない旨を告げてきた。昨年の大嵐で航路が荒れて持ち船がどうのこうの……と、こと細かに理由を告げられるが、お父様の衝撃的なセリフを消化するのに忙しかったわたしの脳には、それらの言葉は染み込まなかった。


 続いてお父様はジョーンズさんは事業を広げるべくお父様の商会と提携を結ぶために……とかナントカ難しい言葉を使ってわたしに説明する。


 小娘のわたしにもわかったのは、お父様の商会はジョーンズさんとやらの商会にほとんど吸収合併される、ということくらいだった。


 お父様はどうなるの? 一家離散してしまうの? 手に職なんてものがないわたしの生活はどうなるの? スクールは?


 一度にわたしの頭をよぎったのは、自己保身がほとんどだった。だって、わたしはまだスクールに通うただの小娘。ある事情からお父様にはつぐないのように甘やかされて育った自覚がある。


 たとえば他の、わたしより貧しい家や下層階級の女の子たちは、スクールになんて通わせてもらえず、今このときも一生懸命に働いている。……働けている。職がある。――でも、わたしは?


 津波のように現実が押し寄せてくる。それは恐怖や絶望と共にやってきて、たちまちのうちにわたしの心を荒らして行った。


 つい数時間前まで、とっくの昔に恋人を見限っていたらしいライナスとの結婚を夢見ていた馬鹿なわたしは、そのときに現実の津波に巻き込まれて、にわかに押し流されて行く。


「……わたしが、結婚すれば……お父様の商会は安泰ですのね?」


 ここでわたしが結婚に対して「うん」と言わなかったら、どうなるのだろう? わたしに甘いお父様はそれを受け入れるのだろうか? 受け入れずに、無理矢理わたしを結婚させてしまうのだろうか?


 いや、それよりも。それよりもそう大きくない我が家で働いている使用人たちや、商会で働いている人たちはどうなってしまうんだろう? わたしが結婚を受け入れず……ジョーンズさんとの提携もなくなれば……みんな、路頭に迷うの?


 ふと脳裏をよぎって行ったのは、ある事情で傷ついたわたしを一生懸命癒してくれた乳母ナースのメアリー。今はもう老齢で、我が家を追い出されたら次に雇ってくれるところはないだろうと言っていた。孫が病弱で、ずっと働き詰めだということも。


 ぐるぐると色んなことが頭の中で渦を描く。……行きついたのは、小娘のわたしひとりにできることなんて、たかが知れている、という純然たる事実だった。


 今のわたしの価値は――年頃の若い女であること。処女おとめであること。父親が中規模の商会を率いていること。……たった三つだけ。


 けれどもその「たった三つだけ」の手札をすべて使うときが――今だ。


「お受けしますわ、お父様」


 わたしはせめてみすぼらしく見えないようにと、しゃんと背筋を伸ばして告げる。けれども心は不安で泣き叫びたかった。


 なんの根拠もないのに、わたしは愛する人と恋をして、そしていずれロマンチックに結ばれるものなのだと信じ切っていた。


 けれども現実には恋人だったライナスはそんな夢見がちなわたしを捨てた。捨てられたわたしは、商会のために見ず知らずの男性を夫とすることが決まった。


 なにもかもが予想から、夢想から、外れて行く。嵐に出くわした小舟のような不安に押しつぶされそうだった。


 お父様はわたしから「うん」という言葉を引き出せたことで、ホッとしたような顔になる。眉間に刻まれていたシワが、少しだけ少なくなった。


「すまない、アン……私にはお前を幸せにはできない。けれどもジョーンズさんならば、お前を幸せにしてくれるだろう」


 それは、わたしには希望的観測にしか聞こえなかった。「そうであって欲しい」と願う、お父様の願望を聞かされているにすぎないのだと、社会経験に乏しいわたしにもわかった。


 わたしが思い描いていた幸せは、心から愛する夫と子供を儲けて家庭を作ること……だった。


 けれども、わたしは明日にでも愛のない結婚をするのだ。家と家の結びつきのための結婚。そんなものは巷に溢れていて、珍しいものではない。……けれどもなぜか、今の今までわたしは、自分は「そうではない」幸せな恋愛結婚をするのだと思い込んでいた。


 しかしその夢はライナスによって粉砕され、お父様と――他でもないわたしの手によって、捨てられようとしている。


 ――これは、「わたしだけ」の特別な不幸なんかじゃない。他人に言わせれば、ありふれた不幸だ。……そう言い聞かせることで、わたしはどうにか嫌な感じに脈打つ心臓を抑え込もうとする。


「ジョーンズさんはスクールには卒業まで通ってもいいとおっしゃられている。息子さん――お前の夫となるザカライアくんとも会ったがなかなかの男前だったよ」


 お父様はわたしを慰めるように言葉を続けるが、次にはまた眉間にシワを寄せてしまう。


「これは先に言っておかねばならないことだが――ザカライアくんはお前より一二は年上で、今年で二八になる。それと……彼には一度の離婚歴がある。……ああ、お前が不安に思うのはわかる。しかし私が見た限りではザカライアくんは好青年だし、離婚理由も前妻の不貞が原因なんだ。ザカライアくんが理由というわけじゃないんだよ」


 わたしの瞳が不安に揺れたのを認めたのだろうお父様は、言い訳のように言葉をつけ足して行く。


 わたしより一二も年上で、おまけに離婚歴がある男性――。それを聞かされて、内心及び腰になってしまった。


 一二という年の差は、おどろくほど離れているわけではないが、それなりに年が開いていることには違いない。加えて、前妻の不貞が原因とはいえ、一度離婚している。それが、わたしの中で正体のない、もやもやとした不安となってにわかに立ち上る。


 しかしここでお父様にその不安を吐露しても、どうしようもないことも理解していた。


 結婚に「うん」と言ったのは、ほかでもないわたしなのだ。ならばもう、今さらジタバタしても仕方ない――。


 わたしはなにもかもをあきらめきる覚悟を固めて、なにに対してかはわからないが、頷いた。

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