第10話

 近づいてきた足音が呆けていた僕の頭を覚醒させた。僕の服の袖を掴むレイチェルの手を落ち着かせるように両手で包み、僕は耳を澄ませた。

 足音は僕の入った扉の付近で止まり、代わりに切迫感のある会話が聞こえた。


「ここから始めよう。おい、お前とお前は二階を回れ。お前は私に付いてこい」

「了解です、警部」


 バラバラと足音が散らばる。それを遮る声が上がった。先ほどの神父の声だ。


「一体なんですかこれは、聞いていませんよ!」

「ノックをしないから強制捜査というのですよ神父様。なに、ちょっとした探し物です。貴方に害が及ぶことはありますまい」


 神父の声に対応する男の声はとても冷え冷えしていた。


「で、ではせめて目的が何なのかを教えて下さい……」

「そうですな、分かりました。ではこちらを見て頂けますか」


 声の主は神父に何かを見せているようだ。僕はそっと扉に近づこうとした。そうすると、レイチェルが再び僕の服の袖を握って引っ張った。


「駄目、ハロルド……行かないで」


 泣きそうな顔で首を振る少女。


「レイチェル」


 僕は彼女に向き直り、彼女の両肩を掴んで静かに言った。


「大丈夫だよ、ちょっと見るだけさ」

「ほんとう?」

「ああ。それにあの人たちは怖い人じゃない、警察だよ。すぐに――」

「駄目!」


 突然レイチェルが声を張り上げ、僕は言葉に詰まる。同時に扉の向こうの気配が一斉にこちらを見たのを感じた。


「けいさつは駄目! ハロルド逃げよ!」

「え、それはなんで……あ!」


 僕の問いには答えず、レイチェルは立ち上がると中庭の反対側へ駆けていった。そちらにも同じような形の扉があった。


「待てって!」


 慌ててレイチェルの後を追うと、背後からの声が背中に刺さった。


「君は誰だ?」


 思わず立ち止まって振り返る。開かれたドアの向こうには茶色のスーツを着た男性と制服姿の警官が立っていた。その隙間には心配そうな顔の神父がいた。


「ぼ、僕は記者です。取材に……」

「記者?」


 怪訝そうな顔をする男たち。神父が慌てて声を張り上げた。


「ハロルドさん! こちらは警察の方です! 大丈夫ですよ、何も心配いりません、うちは健全な経営をしておりますから!」

「あの子は? 君の妹か?」


 スーツの男がレイチェルの方を顎でしゃくって尋ねた。彼女は扉を開けようとドアノブを回している。


「開かない!」


 僕は小さく首を振った。


「いいえ」

「そうか。神父様、あの子はこの施設の子ですか?」


 男が神父を見て尋ねた。神父は驚いて答えに窮する。


「えっ!? いや、どうだったか……そうだったかも……」

「服に血がついているようにも見えますが」

「あの子はうちの子ではありませんな! どこかから紛れ込んだようです!」

「そうですか。ではこちらで保護しておきましょう。おい」

「は」


 スーツ男に指示された警官が大股で内庭に入ってきた。そのままレイチェルの方にまっすぐ向かう。


「開けて、お願い……ハロルド」


 レイチェルが僕の名前を読んだとき、警官は僕の前を通り過ぎようとしていた。僕はどういう訳か無意識に右足を突き出してしまった。


「うごふッ」


 つま先を引っ掛け地面に倒れる警官。


「あ、すみません」


 思わず謝る。スーツ男が怒声を上げた。


「なんのつもりだ!」

「あの、わざとじゃないんです」

「見え透いた嘘を!」

「違うんですっこれはその」


 弁解しながら僕はレイチェルの元へ行き、彼女を抱え上げた。


「ひゃっ!」


 そして片足を上げ、扉を思い切り蹴飛ばした。足に鈍い衝撃が走り、ドアが僅かに歪む。


「は、ハロルドさん! 何をしているのですか!?」


 神父の叫びを無視してもう一度蹴る。嫌な音を立てて扉が開いた。


「おいコラ待て! お前何やってんだ、何のつもりだ!?」

「わわ分かりません!」


 嘘偽りなき本心を叫びながら僕は施設の出口へと駆け出した。


○○○


「おろして。ハロルド、おろして」


 レイチェルにそう言われた僕は、古い建物と建物の隙間にできた路地で彼女を降ろし、ついでにへたり込んでしまった。そばにあった大きな瓶に背中を預けて乱れた息が収まるのを待つ。狭い通りに人通りは少なく、近くを通る人もこちらを一瞬見るだけで関わろうとはしてこない。近くにある義肢屋のテントが風で寂しく揺れていた。

 救貧院を飛び出した僕はレイチェルを抱えたまま人通りの多い市場に入り、いろんな人や物にぶつかりながら裏路地から裏路地へと駆けて行った。いつの間にか追手の数は倍になっていたが、なんとか目に届く範囲からは引き離すことができた。


「大丈夫?」


 レイチェルが膝をかがめて僕の額の汗を拭ってくれた。


「なんとかね。案外逃げられるもんだね、警察」

「がんばったね」


 さりげなく頭を撫でてくるのを優しく払いのけながら、僕はレイチェルに尋ねた。


「ところでなんで警察から逃げようとしたんだ?」

「えと、それが」


 しかし彼女が答えるより先に慌ただしい足音が聞こえてきた。ゆっくりはしていられなさそうだ。僕はレイチェルの小さな手を取って立ち上がる。


「中々しつこいな。どこかに入ってやり過ごす方が良いか……」


 良さそうな逃げ場所はないかと辺りを見回す。そうするとさびれたパブが目に留まった。

 建物は普通のレンガ造りの二階建てだが、なんというか装飾が東洋風だ。どの窓にも色の抜けたカーテンが張られていて、仲の様子を覆い隠している。恐らくその建物から発されているのだろう、特徴的な甘いにおいが風に乗って僕の鼻を刺激した。

 僕はレイチェルを連れてその建物に入った。中は薄暗く、数人の男や女たちが所々でイスやテーブルにもたれ掛っていた。陽気な音楽も流しのピアノ弾きもいない、陰鬱な雰囲気の店内だ。正面奥のカウンターには一人の男がグラスを磨いていた。カウンターの向こうには酒瓶が並んだ棚と、腰をかがめないと入れないような大きさの扉が一つあった。

 男は僕をじろりと睨みつけ、次いでレイチェルを見た。舐め回すように全身を見たあと、ハッと鼻で笑った。レイチェルがそっと僕の後ろに隠れた。


「いらっしゃいませ。ご注文は」


 口調と一致しない不愛想さで尋ねてくる男。僕は男に近づきカウンターにいくらかの金を置いた。男は金を一瞥してすぐに僕の顔を見た。僕は言った。


「どこか空いている部屋はありませんかね、ちょっとの間隠れられるところを探していまして」

「ああ? おいおい、お客さん」


 男は自然な動きで金を掴んで懐に入れながら、声を上げた。


「隠れられる、だと? いったい何に追われているんだ。警察か、ギャングか? いずれにせよ面倒事はいらねえ。第一うちは酒を飲む店だ、そこらで引っ掛けたガキとする場所なんてねえよ」

「なにか楽しいことするの?」

「ちょっと黙って……分かりました、すみません。隠れられるってのは嘘です。僕らはただできる場所を探していまして。迷惑はかけませんから」


 僕のお尻から頭を出したレイチェルを押し込め、空いた手を振って誤魔化す。そしてさらにお金をカウンターに置いた。

 男はフンと鼻を鳴らしてまたもやお金を素早く回収し、今度は先ほどは見せなかった薄笑いを浮かべた。


「なんだ。勘違いしちまったじゃないですか。よしよし」


 そしてカウンターの下から小さな盃二つと見たことのない酒の入った瓶を出し、乱暴にそれを注いだ。注ぎ終わると酒瓶をカウンターの下にしまい、奥の扉を少し開けて言った。


「どうぞ。一番奥の別室は予約客のreserveです。それ以外ならどこ使ってもいいですよ」


 僕はうなずき、回り込んでカウンターの中に入り、扉をくぐった。なにも言わずともレイチェルは僕にぴったりくっついてきた。


「ねえハロルド、ここはどこ?」


 部屋に入って扉を閉めながらレイチェルが尋ねる。

 僕は質問に答えず、官能的な甘い香りが充満する部屋の中をぐるりと見回した。パブの中よりさらに薄暗い部屋の床には一面に絨毯が敷かれ、簡素な二段ベットや火鉢が一定間隔で並べられている。壁には東洋の神々を描いたものだろうか、オリエンタルな絵画が掛けられていた。

 絨毯の上には糸の切れた人形のような人たちがそこかしこに寝転がっていた。寝転がるというより放り出されたままの死体のようだ。だれも言葉を発さず、時折「ああ」とか「うう」といううめき声があがった。

 かろうじて人間らしい姿勢を保つ人たちは皆一様に火鉢のそばに集まり、黙々とキセルを口にくわえて煙をふかしていた。


「すごく変な匂い!」

 

 鼻を押さえて顔の前をパタパタと煽ぐレイチェル。

 その声に反応した一人の先客が僕たちに視線を向け、僕は少し身構えた。その目は淀んでおり、どこか焦点があっていない。ものの数秒もせずに僕たちへの興味を失ったのか、何も言わずに元の姿勢におさまった。


「レイチェル、僕から離れないように」

「う、うん」


 警戒を保ちつつ後ろに手を伸ばすと、すぐに痛さな温かい手が握ってきた。その手は小さく震えていた。

 記者仲間から教えられて存在は知っていたが、実際に入るのは初めてだ。隠れるのに良いかもと思って飛び込んだが、予想以上の異様な雰囲気に気圧される。


「ここはどこなの?」


 空いているベッドにレイチェルと腰掛けると、彼女は周囲を恐々と窺いながら再び質問を投げてきた。


「ここはアヘン窟だ」

「あへんくつ?」

「ああ。人間がゆっくり壊れていくところだ」


 レイチェルが僕の顔を見た。


「大丈夫、あの人達と同じことをしなければああならないから安心して」

「……そう、なの」


 これが帝国が抱える一つの闇である。

 元はただの鎮痛用の薬であったが、その作用に目をつけた帝国が覇権争いグレート・ゲームの道具として他国に流し、国際問題にまで発展した。その報いは今こうして自身にまで及ぶこととなった。

 出自次第では一生見ない帝国の膿。その中に僕はいる。


「ごめんな、変な所に連れてきて」


 年端も行かない少女にこんなものを見せてしまった事の罪悪感が首をもたげ、僕は謝りながらレイチェルを見た。

 レイチェルは何も言わず、静かにアヘンをふかす人を見つめていた。その表情に予想していたような恐怖や驚きはなかった。その顔はなんというか、驚くほど大人びていた。


「レイチェル……?」


 思わず声を掛けると、レイチェルは顔を動かさずに答えた。


「ああいう、壊れ方も、するんだね」


 なんだ?

 これまでと全く違う、低くて澄んだ声が彼女の口から出た。


「ハロルド、わたし、ちょっと思い出してきた」

「思い出した? 何を?」

「わたしね、気づいたらあそこにいたの。なんだかぼんやりしてて、何も分からなくなっちゃってた」

「それは……あの中庭の事か?」


 レイチェルがこくんとうなずいた。

 記憶障害――。

 僕の脳内にその言葉が浮かんだ。何かの記事に書いてあった。事故や大きなショックを受けた脳が精神を守る為に活動を停止するのだとか。最近ロボトミー手術最先端医療で注目を集めた心療外科の界隈で盛んに研究されているらしい。

 レイチェルは警察に追われるようなことをしていたのだろうか? しかし警官たちの反応は彼女を追っているという感じではなかったが。


「それで、何を思い出したんだ?」


 僕はレイチェルに先を促した。彼女はまたもうなずいて応じた。


「わたし、学校にいたの。ちょっと前のこと。色んなお勉強をして、たくさんの事を覚えたの」

「学校か」


 僕は上を向いてあごを撫でた。

 そうすると、彼女はまともな教育を受けられるだけの財力がある家庭の生まれ、要するに中流階級以上の子女という事になる。きっと親御さんも心配だろう。


「その学校の名前は分かるかい?」


 彼女は首を振った。


「じゃあ、その場所とか」

「わかんない……」

「そうか」


 どうやら記憶が全て戻ったわけではないらしい。

 僕は質問を変えることにした。覚えている事から記憶をさらに呼び覚ますことはできるだろうか。


「その学校では何を勉強したんだ?」

「えっとね……」


 レイチェルは両手のひらを出し、親指から指を折って答えた。


「文字の読み方と……計算の仕方。ダンスもお勉強したよ」

「ダンスか、いいね。僕も昔ちょっと齧ったけどてんで駄目だったなあ。ああ、ごめん。他には?」

「ほかには……外国語もお勉強した。忘れちゃったけど」

「外国語? 凄いな、その歳でか」


 僕は驚いて彼女を見た。とても嘘をついている顔には見えない。五つ目を探そうと必死に右手の小指を動かしている。


「あと……あと、火の起こし方もやった。刃物の研ぎ方も」

「え」


 ふと彼女の雰囲気が変化したような気がして、なぜか僕は体温が下がるような錯覚を覚えた。


「生で食べられる蛇の種類も覚えた。頑張って一番最初に食べて褒められたんだあ。あとね、えっとね」

「レイ、チェル?」


 僕の声は届いていないようだった。彼女は目を見開き、必死に次の指を折ろうとしている。その体は小刻みに震えていた。


「あとね、そう、暗号の作り方も教えてもらったよ。アハ、銃も撃てるようになったし、魔動機も動かしたあ。痛みに耐える訓練もしたし、人間の身体で壊しても死なないところも覚えた……あとね、あと」

「レイチェル……?」


 恐る恐る彼女の肩に触れた。レイチェルはびくりと身体をこわばらせた。


「ハロルド……」


 ゆっくりと僕の方を向く。整った可愛らしい顔は緊張し、瞳はこわばっていた。


「……わたし、もう一個思い出した」

「な、何を」


 これ以上聞くべきではないと本能が警告を発していた。しかし体が動かなかった。レイチェルの息が荒くなっていた。


「あのね、わたしね、人間じゃ、なくなったんだあ」


 そう言って彼女はいきなり僕の手を掴み、引き寄せて胸に押し付けてきた。僕は驚いたが、手を引くことはできなかった。

 柔らかな感触の中に、明らかに異質な、石のような硬い何かが心臓の位置にあった。それは彼女の鼓動に合わせて脈打っているようだった。


「な、なんだこれ?」

吸血鬼ヴァンパイアの魔石だよ……」

「魔石、だと」


 僕はレイチェルの顔と彼女の胸元を交互に見た。なんとなく。なんとなくだが、あどけない顔立ちの中に別の怪しい何かが垣間見えた。


「ハロルド、あのね」


 彼女の顔が、非常にゆっくりと近づいている気がして、僕は思わず手を引いた。しかし彼女の手に捕われた。まるで恋人のように指と指を絡ませながら、しかし有無を言わせない強い力で引っ張られる。

 そして小さな少女は、諦念の中で笑うような寂しい顔をして、それはもう小さな声で僕に懇願した。


「おねがい。ハロルドの血、ください」


○○○

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