少女と手と麻薬
第9話
【ハロルド・グレンリベット】【レイチェル】
朝。僕は身だしなみを整え家から出た。時折吹く風に首を縮めながら、工場へ向かう労働者達の流れに乗って石畳を歩いた。
途中で道端に停まっていた手押しの移動屋台に立ち寄り、朝食をを済ませる。屋台の女主人は同じタウンハウスに住む顔見知りで、僕を見ると酒に焼けた声で話しかけてきた。
「おはよう、グレンリベットさん。今日は早いね?」
「おはようございます」
ソーセージを乱暴にぶち込んだパンを齧りながら、僕は頭を下げた。
「お出かけかい」
「はい。貧民街の方に行こうかと」
「あらそう、逢引にでも行くのかい?」
「違いますよ、仕事です」
「本当かい? 昨日話してた女の子はいいのかい?」
「やめて下さいよ、ただの友達ですよ」
昨日のクラリスとの一件を見られていたのか。僕はしかめっ面をして見せた。女主人は悪びれもせず呵々大笑した。
「若いうちは色々経験しとくといいさね。恋も仕事も。あ、それならお昼ごはんも持って行った方が良いんじゃない? 安くしとくよ」
「はあ、そうですか」
何が『それなら』なのか分からなかったが、商魂たくましい女主人に押し切られて余分にパンを買ってしまった。僕はなけなしのお金と引き換えに受け取った紙袋をカバンに押し込むと、再び人の流れに乗って帝都を下っていった。
○○○
庶民街を抜け、薄暗くて煤臭い工場地帯も通り抜けると、爽やかなドブ臭の漂う川が僕を出迎えた。帝都と郊外の貧民街の境目には大きな溝のように川が流れていて、大きな石のアーチ橋が三つ架けられている。一番古い橋はかのローマ皇帝ハドリアヌスが視察に来た際に建設されたものであり、その後何度かの破壊と修復を繰り返しながらも今なお物流の動脈として利用され続けている。
その橋を渡って行ったり来たり、大勢の人が忙しなく歩いていた。
貧民街に向かう人たちは大抵、市場での買い物が目当てだ。同じものでも帝都内で買うより少し安く買えるので、様々な卸売り業者はもちろん生活費を少しでも浮かせたい主婦も集団で訪れる。夜は渡河制限がかけられているので、みな早めに用事を済ませるために午前中に人通りが集中する。
橋を渡った僕は、道端に立っている三体の黒い魔導機にしばし目を奪われた。
二足歩行を会得したトカゲのようなそれは俯いて無機質な威圧感を醸し出していた。大人三人分ほどの身長が道に影を落とし、通行人はそれから一定の距離を取って歩いている。
その傍らには二名の帝国兵士が暇そうにタバコを吸っていた。彼らは帝国軍の治安維持部隊の人間で、日夜帝国の安寧を脅かす存在がいないか目を光らせている。時にはこのように魔導機を用いた巡回や立番で示威的に反抗の芽を摘み取っている。
とはいえ別に普通にしていれば何かをしてくることもないので、大抵の人はその存在を受け入れている。
そんな鉄のトカゲをなんとなく見ていると、帝国兵士たちの談笑が聞こえたので、僕は道端に寄ってブーツの紐を直す仕草を取りながら耳をそばだてた。二人はこの魔導機についての話をしている様だった。
若い兵士が魔動機の足に煙を吹きつけながら相方に尋ねた。
「なあ、俺ずっと気になってたんだけどよ」
「なんだよ」
「こいつの名前ってさ」
「魔導機の? あの
「違う違う、
「それがどうしたんだよ」
「ヴァルキュリアってあれだろ、どっかの神話に出てくる女の事だろ? なーんで機械に女の名前つけるんだろうなって」
「良いじゃないか、別に」
「良かないよ。もっと強そうな名前にしてほしいぜ」
「じゃあどんな名前がいいんだよ」
「んー、サムライ! 男らしくて強そうだろ」
「はああ~~。出たよ東洋かぶれが」
「ワビサビも良いな、音の感じが」
「意味わかんねえ」
「そうかな」
「そうだよ。第一お前、ヴァルキュリアはただの女じゃなくって戦乙女のことだぞ」
「なにそれ」
「戦死した兵士を迎えに来る女神らしいぞ」
「なにそれ」
「まあ俺も良く知らん。けど良いじゃないか、死ぬときに女が傍にいてくれるって。傍にって言うか、搭乗中なら女に抱かれて死ぬことになるな」
「うわ、それなんかエロイな。女の中で逝くとか、俺興奮してきた」
「俺も。あとでどっか寄るか」
「おう。そういや行きつけの店に新人の子が入ってさ、それがかなりイイ感じなのよ……」
僕はげんなりして立ち上がった。朝からのんき、いや元気な事だ。
下世話な兵士達とは反対に、漆黒の
○○○
その後しばらく歩いて目指す救貧院へたどり着いた。そこは貧民街でも比較的治安が安定しているところにある。救貧院自体は庶民街にもあるのだが、やはり貧民街の方がよりその実態が見えるだろうという狙いがあった。
救貧院の院長を名乗る神父は太ったハゲワシを思わせるような見た目だった。上質な黒の
僕が身分を明かして取材を申し込んだ途端に露骨に嫌そうな顔をしたが、売り上げの一部を施設に寄付する旨を伝えると態度をコロリと変えて招き入れてくれた。
それからは建物の内部を共に回りながら、自分がいかにこの活動にどれほど身を捧げているかを大げさな身振りを交えながら語った。
「ここの建物はおおよそ二百年前につくられた修道院を改装したものなんですよ、所々にドーリア式の意匠が施されているのが特徴でしてね。え、入居者ですか? ええ、ええ、分かっていますとも。今は大体百人ちょっとくらい、あれ、百五十だったかな? まあそのくらいの人が暮らしていますよ。ほとんどが子どもです。ええ、そうなんです。うちは特に孤児を救済する事を重視しておりましてね。ただ食事と寝るところを与えるだけのそこらの救貧院とは違います。ちゃんと勉強・勤労・信仰の尊さを学んで独り立ちできるような教育を組み込んでおりまして――おい、コラ! 黙って通り過ぎるんじゃない! お客様が見えた時はちゃんと挨拶をしないか!」
大量のベッドシーツを抱えて歩く少年を叱り飛ばす神父。少年は青白い顔を強張らせて頭を下げ、よろよろと去って行った。
「いやあ、失礼しました。将来を担う立派な帝国臣民の一員となるべく躾もしっかり行ってはいるのですが、いかんせん人手が足りない状態でしてな。年長の子には下の子の世話をさせることで補ってはいるのですが、やはりこれほどの施設を運営するには理解者の援助が不可欠であると我々も感じている次第でありまして――」
神父の遠回しな金の無心に対し僕は小難しい顔でうなずきながらメモを取っていく。神父の媚びた笑顔から彼の考えが手に取るように分かる。ここで僕に好印象を持ってもらい、『神父様は立派な人! 貧しい子供たちのために粉骨砕身頑張っている! 皆で施設経営の支援をしよう!』的な内容の記事を書いてほしいのだろう。
実際のところ、僕が所属している出版社がどちらかと言うと左巻きの会社なので、僕がどう記事を書こうとも編集の段階で『帝国政府の福祉政策はずさんだ! もっと大衆に目を向けた政治をしろ!』というアジテーション味の強い内容に調理されてしまうことは間違いない。そもそも大衆に影響を及ぼすような規模の会社でもないし。
「アハハ、大変ですねえ」
僕は熱く語りすぎて顔が赤くなってきた神父を見ながら、多少の申し訳なさで苦笑いを浮かべるしかなった。
さて、そんな白熱する演説を聞きながら施設内を歩いていると、来客の知らせが神父に届いた。
「今、この方の対応をしているのだが……」
そう言ってちらりと僕を見る神父。僕は好機にこぶしを握り締めるのを我慢し、快くうなずいて言った。
「大丈夫ですよ。僕のことは気にせずどうぞ行ってください」
「そうですか。それでは申し訳ありませんが失礼します。すぐに戻って他の部屋もご案内しますので、良かったら食堂でお茶でも飲んでいてください。君、案内を……」
「ありがとうございます。一人で集中して記事の内容を考えたいので、どうかお気になさらず。そこの中庭で外の空気を吸っていますね」
「分かりました。それでは……」
神父が居なくなり、一人になった僕は人目がないことを確認して手近な部屋に入ってみた。そこは三段ベッドが三つ並んだ窮屈な寝室だった。部屋人は出払っており、狭いのに閑散としていた。ベッドのシーツは茶色く、マットレスはペラペラで寝心地が悪そうだった。壁に埋め込まれた書棚には年季の入った数冊の絵本が立てかけられており、四年前に出版された本が一番新しい。
神父の並々ならぬ熱意の割に施設の管理が行き届いてないように思える。そういえばあの神父、かなりいい生地のキャソックを着ていたな……。
僕が神父の言葉と施設の現状の乖離を確信したころ、なんとなく人の気配を感じたので急いで部屋から抜け出した。
勝手に部屋を覗いていたことがバレないよう足音をころしながら、近くにあった扉を抜けて中庭に出る。四角い建物の中につくられた人口の庭にはだれもおらず、とても静かだった。
たぶん誰にも気づかれなかったことに安堵し、ため息をついた時。中庭の端の壁沿いで植生が不自然に揺れ動いたのに気付いた。僕は何の気なしに近づいた。
そこには一人の少女がうずくまっていた。シルバーブロンドの髪の毛で顔はうかがえなかったが、その服には乾いた血がこびりついており、一目で何かあったと分かる雰囲気を発していた。
「お、おい! 大丈夫か!?」
慌てて駆け寄り肩を揺する。体は温かい。どうやら死んではいないようだ。しばらく声を掛けていると、少女はゆっくりと白い顔を上げて僕を見た。
「ん……」
顔色を窺うため髪をかき分けると、前髪の間から古い血の色をした双眸が僕をぼんやりと捉えた。僕はその瞳の深さに思わず声をのんだ。
「君、怪我は」
僕が問いかけると、少女はぱちぱちと瞬きをして小さな口を開けた。
「だいじょうぶ……あなた、誰……?」
ぼんやりした口調に一抹の不安が残るが、急を要する事態ではなさそうだ。よく見ると服に付いた血も大した量ではなかった。
僕はひとまず安心してため息をつき、少女の質問に答えた。
「僕はハロルド。君は?」
「ハロルド……わたしは……レイチェル」
「レイチェルか。よし、レイチェル。君はここの子かい? 何があった?」
そう尋ねるとレイチェルと名乗った少女は周囲を見回し、ゆっくりと首を振った。そして不安そうにつぶやいた。
「よく分からない……逃げなきゃ……」
「なに? なんだって?」
逃げる?
「逃げなきゃ……」
少女は再び呟いた。それは僕に向かって語ったというよりうわ言のようだった。
「逃げる……」
僕はおうむ返しに呟いた。
なぜ? 何から? この子に何があった?
彼女の言葉にいくつもの疑問が噴出しする。同時に言いようのない不安が胃のあたりからせり上がってきた。
とにかくまずは神父に知らせないと。彼女を保護してもらってあとは警察に任せよう。そう思って立ち上がりかけた時、レイチェルの小さな手が僕の袖を弱々しく掴んだ。
「ハロルド……おねがい、たすけて」
「っ!」
紅い瞳が僅かに揺れながら僕を見つめていた。その目の中はクラリスが僕に見せたものと同じ不安で満ちていた。
僕の動揺を察したかのように、遠くからまばらな足音が近づいてきていた。
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