第6話

【リョータ・ラフロイグ】【アリシア・アードベッグ】


「大変だ、大変だ、大変だ……」


 うわごとのように呟きながら、リョータは細長い足を懸命に動かし、人の気配のない石畳の町を走っていた。背後からは追跡者の足音と声がこだましている。本当は全力疾走で逃げ出したいところだったが、抱えている大きな木箱のせいでそうもいかない。

 今回アリシア姉弟子が指定した墓地の出入口は一か所しかない。そこは警備が固められ、夜の闇に紛れた墓泥棒が侵入できないよう見張られていた。他の部分は高い鉄柵で囲まれている。だから予め目立たない位置の柵を壊し、抜け出せるように細工をしておいた。念のために墓守達にいくらか金を握らせることもした。

 それなのに、墓地を抜けた途端に巡回の警官の目に留まってしまうとは。


「くぉぉらあぁぁあっ! 待たんかあああ゛あ゛あ゛!!」


 地獄の鬼も震えあがるような怒声が響き、リョータは思わず首を縮めた。大分距離は離しているはずだが、声がでかい上に狭い住宅地の壁に跳ね返って音が響き渡る。心臓の弱い人なら発作を起こしてもおかしくない。

 遺体を盗む行為は確かに犯罪だが、それが発生する理由故に行政の締めあげはそこまで厳しくない。話の分かる警察官ならば気付かないふりをして通り過ぎてくれることもある。血眼で遺体を守ろうとするのは遺族くらいのものだ。つまり、今回は相当運が悪かった。


「逃げるなあ!! どこ行ったあああ!!」


 配管の走る路地裏を縦横に走り回り、やっとこさ撒くことができたようで、遠くなる馬鹿でかい声に耳を澄ませながらリョータは建物の影で安堵のため息をついた。


○○○


 四方を石に囲まれたその地下室は冷え冷えとしており、静謐に包まれていた。窓はないが魔力ランプの明りで照らされており、不自由のない明るさである。その部屋は元々はただの物置だったが、現在は解剖室として使用されている。

 部屋の真ん中に置いてある解剖台の上には裸の女性が横たわっていた。わずかに開いた口、そして血の気のない青白い肌はそれが骸であることを示している。少し落ちくぼんだ眼窩がんかは天井に取り付けられた滑車と鎖を虚ろに見つめていた。

 その体のそばに佇む二つの人影があった。アドルソン医師とその弟子のアリシアだ。五秒おきに懐から懐中時計を取り出して舌打ちをするアドルソン医師に対して、アリシアは蝋で固めた人形のように微動だにしない。


「何をやっているのだ! あの馬鹿弟子は! どこをほっつき歩いとる!?」


 ついにこらえきれなくなったアドルソンが怒声をあげた。


「……」


 アリシアは何も言わず、ちらりと師の手元の懐中時計を盗み見た。時刻は真夜中をとうに過ぎていた。平素はうまく隠しているつもりのアドルソンの短気な性格も、プライベートを知る相手には自制をすることがない。

 師が頻繁に時間を気にしているのは、彼がひそかに通っている『真夜中倶楽部』の会合が迫っているためだ。深夜に集まってタバコ臭い部屋で酒とトランプをするだけのろくでもない集まりだが、社交界に対する並々ならぬ熱意を持つアドルソンにとって外せない行事なのはアリシアも知っていた。

 アドルソンは開業医だが、業績は芳しくなかった。彼自身の医者としての腕がイマイチなのに加え、金と出世欲の塊のような性格が患者たちを遠ざけていた。アドルソンは彼に掛かる病人を客として考えてはいたが、彼の医者としてのプライドが、患者たちが本質的に望むサービス(つまり大丈夫ですよとにっこり笑ったり、治療の合間にちょっとした世間話をしたりといったこと)に対して無頓着にさせていた。患者たちもそういった事は敏感に感じ取るもので、いつも不機嫌そうな医者とてきぱきと動くが無表情な弟子一号、そして何かしら落としてよく怒られる弟子二号の三人しかいない診療所に通い続ける人はほとんどいなかった。

 結局治療費だけでは経営が成り立たないので、たびたび地下室で解剖標本を作りその検体やスケッチを大きな病院や好事家たちに売るという行為で首をつないでいた。このこと自体は別に犯罪ではない。


「これだから最近の若いものは……!」


 檻に閉じ込められた犬がストレスによる常同行動でグルグル回るように、地下室の端から端まで行ったり来たりするアドルソン医師。アリシアは相変わらず眉一つ動かさずに遺体を見つめたまま静かに言った。


「何かトラブルがあったのではないでしょうか。墓守達に見つかったのかもしれません」

「なにぃ? まさか」


 アリシアが遠回しに弟弟子を庇うと、アドルソンの足がピタリと止まった。リョータはどんくさい所はあるがまじめな男である。師匠を待たせてどこかでビールをひっかけたりする事はないはずだ。とはいえ、アドルソンの厳しい姿勢が変わることはなかった。


「あの間抜けめ! 警察に捕まった時の保釈金はだれが払うと思っているんだ!」


 鼻息荒くののしりの言葉を振りまきながら、壁にかけられたフロックコートと帽子を手に取り、ドアに向かう。そしてドアの前で振り返るとアリシアに指を差して言った。


「今日の解剖は中止だ! 私はこれから出かける」

「分かりました、先生。リョータはどうしますか?」

「あんな奴は放っておけ! 探しに行こうなんて思うんじゃないぞ、お前に何かあってはいかん」

「はい」

「うむ」


 無機質にうなずくアリシアにアドルソンは満足そうに唸った。医者としての能力が高く、従順な彼女をアドルソンは重用していた。男であったなら養子にしてやったのにと歯がゆく思うこともあった。それはそれで独立される恐れがあるので何とも言えないが。ともかく、アリシアに関しては下手に扱って手元から離れることのないように気を付けていたし、遺体を盗み出すのはいつもリョータ一人にさせていた。


「先生」


 アドルソンがドアノブに手をかけた所で、アリシアが抑揚のない声を出した。まだ何かあるのかと言いそうになったが、はやる気持ちを押さえたアドルソンは振り返り、努めて平静に応じた。


「なにかな?」

「この検体ですが、私が解剖しても良いでしょうか」

「なに?」

「今回は子宮を除いた腹腔臓器の全摘出がクライアントの依頼でしたよね。それなら私一人でも行えます。先生の手を煩わせることはないかと」


 ある意味では師匠に対してかなり挑戦的な発言だったが、彼女の言葉は言葉通りの意味しかないことをアドルソンは経験上よく理解していた。検体の納期は明後日だし、アドルソン自身も解剖はそれほど・・・・得意ではないことを自覚していた。決して苦手なのではない、ただ面倒なのだ。だから手を煩わすことなく仕事が一つ済むのは実に好都合だと師は思った。


「スケッチはどうする」


 魅力的な提案だが、即賛成するのは師としての体面に関わると思い、アドルソンは試すように質問をした。解剖中の検体の記録はいつもリョータが取っている。二人が彼を待っていたのもそのためだ。


「今回は医療機関に提供する学術的な解剖ではありません。よって途中の記録は不要かと。彼が帰ってきたらゆっくり描かせます」


 淀みなく言う彼女の意見は妥当に思えた。アドルソンは少し考え込むポーズをとった後、本心を悟られないように重々しくうなずいた。


「分かった。本来なら私が行うべきことだが、君がそこまで言うなら任せよう」


 そう言うと、心なしか軽くなった足取りを乗せてアドルソンは地下室から出て行った。


「……」


 ドアが閉じ、再び静寂が訪れた。アリシアは師匠の出立を見送ると、すぐに遺体の解剖にとりかかった。

 アリシアからすると、師匠の下手糞な・・・・解剖に付き合わされるより一人でする方がはるかに楽だった。師匠ときたら、横たわった死体の腹を延々とくちゃくちゃいじるばかりで、その音が眠気を誘う。スケッチだってその気になればリョータより精巧な絵を素早く描くことができるが、それをしてしまうと本格的に弟弟子の立場が無くなってしまうので秘密にしている。

 長いタオルを用意すると遺体の上半身を起こし、たすき掛けの要領で括り付けた。遺体の少し開いていた目をそっと閉じる。そして唐突に遺体に語り掛けるように独り言を漏らし始めた。


「魔石の発見は、それまで禁忌とされてきた魔法を学問の領域にまで押し上げた……」


 冷たい頬をそっとなでる。当然ながら何の反応もなかった。

 遺体をうつ伏せにさせ、天井の滑車から伸びる鎖を手繰り寄せてタオルと縛りつける。


『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』Lasciate_ogne_speranza,voi_ch'intrate'……。かつて詩人ダンテが見つけた地獄の門は世界各地に七つ存在したと言われている。その門はとある悪魔崇拝者によって開かれた後に消え、すべての行方が分からなくなった。それ以降世界には魔物が現れるようになり、人類の歴史は大きな転換点を迎えた」


 縛りが甘くないことを確認して部屋の端にある手回しの巻取り機に向かい、取手を掴んだ。天井に取り付けた滑車が軋む。


「その魔物の出現は人類に恐怖と混乱、そしてある種の進展をもたらした。まずは人間同士の争いをある程度収拾させた。国家間の争いだけでなく、異端審問や魔女狩りの類も駆逐された」


 力を込めてゆっくりと巻き取り機を回す。脱力した全身が上半身から少しずつ持ち上がっていく。


教会カトリックは魔物が神の敵であると認定し、同時にこれまでの過ちを認めた。魔物と比べてみろ、山菜取りの女性や助産婦が一体何の悪事をしたというのだ、と」

 

 上半身が持ち上がり、だらりと垂れ下がった腕がプラプラと揺れた。


「やがて魔物を専門とした狩猟集団、魔物ハンターが生まれた。初出はランツクネヒトから派生したとも、イェニチェリからとも、言われて、いる……重」


 少し汗が出てきた。血液は既に抜いているとはいえ、なかなか骨の折れる作業だ。一旦息を整えて、再び持ち上げ作業に戻る。


「討ち取られた魔物を調べると、血管の中からごくまれに結晶化した魔力の澱が採取された。それが魔石だ。魔石は人間が持つ魔力とはけた違いのエネルギーを秘めていた。高熱を発する物、浮力を宿す物、音を増幅させる物……。魔石は貴重な資源になり、世界は魔導蒸気機関の時代を迎えた……。っと」


 やがて遺体の膝が解剖台に乗るか乗らないか程度まで引き上がったので、鎖を固定する。完全に宙づりにすると体がくるくると回ってしまうのだ。

 遺体の太ももを軽く揺すって重みがしっかりかかっていることを確認すると、部屋の隅にある作業台に行き、並べられたナイフの一つを手に取った。刃がきちんと研がれているか、錆がないかと確認する。

 そして遺体の正面に立ち、刃先を入れすぎないよう気を付けながらへその少し下を横に切る。そして体の中心線を見計らい、肋骨の隙間から下腹部までを一気に切り下した。十字に切り開かれた腹の皮がめくれ、自重に負けた腹腔内の臓器が一気に剥落して作業台の上にボトボトと落ちていく。


「うん」


 初めてやってみたが、概ね想像通りにいった。時計は持っていないが、アドルソンが出て行ってから十五分も経っていないはずだ。


「できた」


 アリシアはナイフを解剖台の上に投げると、初めて小さく笑った。


○○○

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