第3話
【ミリア・トバモリー】【ローランド・ローズバンク】
薄暗い布張りのテントの中、ミリアさんはぴょこんと立った自身の耳をモミモミしていました。
「あ゛~~」
テント内空間の半分を占める作業台の上にあごを乗せ、うら若い女性が出すにはやや人目をはばかる濁音交じりのため息を吐き出します。その響きの深さたるや、チョーカーの金属部分が共鳴してちょっと震えるほどでありました。
しかしそうなってしまうのもむべなるかな、ここには誰もいないのであります。否、誰も来ない、の間違いでした。
出入り口である垂れ幕の向こうには様々な露店が実に雑多に立ち並んでおります。
ここは帝都第三臣民地区、いわゆる貧民街に点在する商店街の一つであります。主要な大通りからは二本も外れた狭い区画ですが、それでもパラパラと人の行き来はあります。
それなのに、ここ二日はどなたも垂れ幕をくぐってくれません。
つまるところは。
「暇ぁ」
なのでした。
とうとうミリアさんが作業台の上に上半身を預けだしました。お行儀が悪いとは言わないでください、ミリアさんは獣人なのです。人間社会の常識や感性とは多少のずれがある事はご容赦願いたいのです。台の端に置かれた工具が地面に落ちるが気にしません。どうせ客など来ないのです。拾ってきれいに並べた所で出番はありますまい。
この性根が発酵食品のように腐った少女の義肢修理店は今日も閑古鳥が鳴いておりました。
「おなかすいたぁ」
あまりの客足のなさにもはや脊椎から直接口に言葉が出るほど脳みそが退化してしまったようです。
とは言えこのミリアさん、決して義肢職人としての腕が悪いわけではありません。彼女は辺境の小さな村で貧しくも温かい子供時代を過ごしておりました。手に職をつけるべきとのご両親方の方針で故郷では知る人ぞ知る名工に師事し、その下で研鑽を積んで高い技術を会得したのです。
やがて若さと自信に満ちたミリアさんは調子に乗りまくり、帝都でさらに腕を磨くことを望みました。
村人が集めてくれた資金で片道切符を買ってえんやこらと帝都に乗り込んだところまでは良かったのですが、それからが散々でした。
引っ越してすぐスリに遭ったのに気付かずたらふく食事をして無銭飲食を働き、償いとしてそのお店で働きはじめるも皿を割りまくって借金は膨らみ、さらに無断で尻尾を触る不届き物を思わず殴り倒したら保健局のお偉いさんだったとかで怒りを買い、そんな破廉恥野郎に食事にノミが入っていたぞ! とでっち上げられたせいで捕まってサマーカットとかいう辱めを受け、泣きながらとぼとぼ歩いていたら川に落ちて泥まみれになり、溺れかけた所を偶然助けてくれた親切なおじいさんが実は人買いで、売れ残ったら猫カフェで
嗚呼、なんという運命のいたずらか。
ミリアさんは毛並みが美しく手足のすらりとした、もちろん尻尾もきゃるんとした感じの、かなりの美人と評してさしつかえのない容貌を備えています。大きな瞳に潤いのある長いまつげを備えた、おすまし顔が素敵な女性なのであります。
そんな彼女がしっとりとした夜空の下、故郷を想い儚げな涙の雫をキラキラと振りまきながら己の非運を嘆けば、その姿はさぞかし絵になることでしょう。
「お尻かゆい」
ポリポリ。悲しいかな、現在のミリアさんの凋落ぶりは正視に耐えません。
今はもう世間の厳しさを経験してすっかり萎え果てた挙句、時々お尻を掻きながら生きるだけの、無気力と惰性に満ちた人生を送る毛玉になってしまいました。この姿は故郷の家族には見せられますまい。
姿といえば、ミリアさんは自分の見た目にも気を払いません。動きやすいからとそこら辺の娼婦でも裸足で逃げ出すほど短い丈のパンツを履き、明らかにサイズが小さい主人のおさがり開襟シャツでふわふわの毛いっぱいの胸元を締め付け(ふわふわのお腹は見えていますが)、首元には奴隷の証であるチョーカーをはめています。
見る人、いえ見る獣人が見れば即発情させかねない危険な格好ですが、これまでそういったたぐいの危険に遭ったことがないのは、他人の物にあまり興味を持たない獣人の習性に加え、誰かの所有物というのが一目で分かるチョーカーを身に着けているからでしょう。
「ん……」
作業台にべったりと上半身を委ね、時折お尻をポリポリしていたミリアさん。先ほどから何だか落ち着かない様子です。
この作業台はミリアさんの仕事道具の一つです。素材はオークの一枚板でできており、様々な義肢を上に置いて、毎日のように叩かれまくった結果、とてつもなくバキバキになっていました。新品の時のような真っすぐさや清廉さはもはや跡形もなく、今では舌なめずりをしながら獲物を待つ肉食獣のような、べらぼうに硬いデコボコ板と化していました。
「だがこれでいい。いえいえ、これがいいの」
誰に言うでもなくそう首肯すると、とうとうミリアさんは堪忍ならぬというように板の上に身を投げ出し、仰向けになると体をくねらせ始めました。オーク板の硬くてたくましいデコボコが首元からしっぽの付け根までをゾリゾリと刺激していきます。
「ん……」
少しずつ呼吸が荒くなってきました。背中を反らして肩甲骨を板に擦りつけると、膨れたお胸のラインがふよんと揺れました。
「んっ、あ、はぁ、はぁ……」
だらしなく開かれた口元からは唾液混じりの艶々した舌が艶めかしく見え隠れしています。
「あぁ、あ~っ。コレッ……いい所に当たるっ、あっ、やんっ」
摩擦と興奮で体温が上がり、全身が火照っていきます。かなりいい所まで来ているのは分かるのですが、もう一歩、大きな刺激が、欲しい。もっと、強く、擦りたい!
「ここ、かな……ンッ!?」
お尻を少しあげ、背中をゴリっと動かした瞬間。
「ふあっ」
尾てい骨からうなじにかけて雷が落ちたかのような衝撃が走りました。
「あっう! はぅ!」
続けて大波に飲み込まれるような感覚が全身を襲います。ミリアさんの身体が彼女の意志とは関係なく収縮と弛緩を繰り返し、ビクン、ビクンと不規則に痙攣しています。
「ふわあ~」
脳内にピリピリと電流が走り、瞳には何故かうっすらとハートが浮かんでいました。
「ふあ、あぁっ……あう」
時折震えたりひきつったりしながら、呼吸を止めてブルブルが断続的に収まってくるのを待ちます。しばらくしてブルブルの度合いがさざ波になってくると、ようやく全身の肢体を脱力させます。
「はぁ、はぁ」
余韻に浸りながら荒い息を少しずつ整えていくミリアさん。だらりと締まりなく口を開け、その端からは舌が出ております。
「あへぇ」
とろんとしたその表情は心なしか笑っているようにも見えました。
退廃的な悦びを知ってしまったミリアさん。すっかりこの作業台に夢中になり、他の材質ではだめだと体が認めてしまいました。そう、今や心も体も完全にオークの虜になってしまったのでした……。
さて、コトを終えたミリアさんはうーんと伸びをして。
「もう一回」
なんという事でしょう。ミリアさんの探求心はまさに底なしでした。もはや医者も黙って首を振るレベルです。嗚呼、彼女は一体どこまで堕ちてしまうのか、答えは神のみぞ知るところ。
テントの中にはむんむんとした熱気がこもり、艶のある湿気で満ちていました。
もはや服など邪魔だとばかりに胸元のボタンに手をかけた、その時。ぶっきらぼうな声がテントの出入り口から飛んできました。
「何やってんだお前」
「ひええッ!?」
ミリアさんの尻尾がビリビリと逆立ちました。慌てて顔を向けたその声の先、垂れ幕の隙間には小さな頭が一つ覗いていました。きちんとした身なりの少年。ミリアさんを直視しないよう、しかめっ面を横に向けています。買い物帰りか、その腕には大きな紙袋を抱えていました。
「あっ、なんだ、ご主人かぁ。びっくりしたぁ」
声の主を認識したミリアさん。知っている人で安心したのか、作業台の上に行儀よく座り直した時にはいつもの調子に戻っていました。
「なんだじゃない、このバカ」
ぶすっとした調子で言う少年。この少年(というより男の子と表現した方がしっくりきます)は名をローランドといい、一年前にミリアさんが泥だらけで人買いに捕まった時にたまたま通りがかり、何の気まぐれかその場で彼女の身受けを行われた方です。もっと直截的にお二人の関係を言いますと、奴隷と主人という事になります。
ローランドはなにやら不機嫌な様子のままテントに入り、ミリアさんが座りなおした作業台の空いた所に紙袋をどさっと置きました。地面に転がる工具も拾い上げて台の上に並べ、紙袋の口を開けるとリンゴやらマッチやらを取り出しています。その間ミリアさんには目もくれず、口も一切聞いてくれません。
「あのォ。ご主人、何かあった?」
流石はミリアさん、主人のただならぬ雰囲気を瞬時に感じ取る優秀な奴隷です。ローランドの顔を覗き込み、頬をつんつんしながら尋ねます。
「……」
完全無視。これは重症です、すぐに手を打たなければなりません。頬をつんつんからぷにぷにに変え、様子を窺います。ミリアさんの所見によるとこの症状は。
「あ、分かった。お腹痛いんでしょ~。何か変な物食べたの、ご主人? ずるい、私も欲しい」
「やめろっ」
とうとうローランドに思い切り手を振りほどかれてしまいました。耳まで真っ赤になった顔でミリアさんをにらみつけてきます。
「お前っ、声が大きいんだよ!」
「声?」
ほ? と眉を上げて首をかしげるミリアさん。ローランドは憤懣やるかたないといった様子です。
「お前の声、外から丸聞こえなんだよ! へ、へ、変な声出しやがって!
ミリアさんの鼻先に人差し指を突き立てながらローランドはわあわあとまくしたてます。どうやら先ほどの声が彼と彼の兄貴分に聞かれてしまっていたようです。
「ああ~」
なるほど合点と手をポンと叩くミリアさん。そして耳の裏を掻きながら多少は申し訳なく見えるように笑顔を浮かべました。
「えへへ。ごめんね?」
「……ふんっ」
唇を尖らせてふいっと顔をそむけるローランド。彼がこういう仕草に弱いのはこの一年間でばっちりと把握しています。奴隷の立場とはいえ、相手は所詮少年。駆け引きにおける小狡さは何枚も上手なのです。
とはいえ今回は彼のメンツに傷をつけてしまいましたから、ミリアさんも多少慎重に対応せざるを得ません。作業台に座った姿勢を保ちながらお尻をずらしていき、ジリジリとローランドに近づきます。
「ねーえご主人。わるかったよう……あたっ!」
おでこに衝撃。軽くのけぞったあとに目を開けると、横を向いたままのローランドが掴んだリンゴをこちらに向けていました。
「もうすんな」
「えぇ~だって」
「かっ、痒いところあったら! 今度から俺が、掻いてやるから……」
ミリアさんの不満げな声を遮り、しかし最後の方はぼそぼそとした話し方になるローランド。
「ご主人……」
ミリアさんはローランドの顔をじっと見つめます。
「ほら、早く取れって!」
ぽやっとしていると、胸元にリンゴを押し付けられました。その時に彼の細い指がふわふわの胸毛とその下のふよんとした弾力にわずかながら触れました。
「あっ……!」
慌てて手を引っ込めたローランドは首まで真っ赤になっていました。額には大粒の汗が浮かんでいます。そんな彼を見つめるミリアさん。通りから布一枚で隔絶された二人の空間は妙に熱っぽく、湿り気がありました。
胸元のリンゴを両手で抱きながら、ミリアさんは意を決したように主を呼びます。
「ご主人、あの」
「ななっ、な、なんだ!?」
「お願いが……」
「お、う……」
ぎくしゃくとした動きで返事をするローランドに向かって、ミリアさんは小首をかしげ、今日一番の渾身の表情を作って言いました。
「リンゴの皮、むいて?」
スパン! マッチ箱を顔面に投げつけられました。
その時、紙袋の一番底に入っていたものがミリアさんの視界の端に移りました。小さな包みに入念にまかれた紐。
ああ、またかぁ。
作業台の奥にひっくり返りながら、ミリアさんはぼんやりと考えます。
麻薬だぁ。
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