第2話

【ハロルド・グレンリベット】


 取材に出かけようと家を出た矢先、玄関から数歩の曲がり角で幼馴染のクラリス・カードゥとばったり出会った。そして寝耳に水の急報を聞いた。


「えっ結婚?」


 我ながら間抜けな声が出たものだと、僕は心の中で自分をなじった。思わず周囲に目をやるが、平日の朝に他人のゴシップに聞き耳を立てるほど暇な人はいないようだ。


「うん、一昨日縁談がまとまったみたいで。私も昨日の晩に知ったの」


 クラリスは小さく、しかし確実に僕の聞き返しを首肯した。チャームポイントのそばかすがいつもより腫れぼったい。幼い頃には兄や弟と一緒にこのそばかすをネタにからかって泣かれたものだった。最近ではすっかりたくましくなって、下手に揶揄すればクリケットのバットで叩きのめされかねないことを僕ら兄弟は身をもって知っている。


「そっか」

「うん。式は二か月後の予定」


 早いな。ぼんやりと物思いにふけっていたせいでそれだけしか思わなかった。ややあった沈黙に気づいた僕は慌てて話に戻った。


「あ、そうか。おめでとう」

「うん……。ありがと」


 後ろ手で伏し目になるクラリス。いつもよりぎこちない感じだ。


「それで、えっと、相手はどんな人か聞いていい?」

「うん。ウォーカー家の次男さん。五歳年上みたい」

「ウォーカー家? お姉さんのところの?」

「そう」


 聞き返すと、クラリスは下を向いたままうなずいた。彼女も多少、いやかなり戸惑っている雰囲気だ。それもそのはず、ウォーカー家はクラリスの姉の婚約先なのである。つまり姉妹揃って同じ家に嫁ぐ、という事になる。

 なぜ、という質問を直截的にするのは憚られた。貴族の家系に於いて結婚というものは極めて重要な政治戦略であり、しばしば個人の意思の介入は阻まれる。今は一人暮らしをしているとはいえ、僕も准男爵Baronetの家の次男ではあるので、そういう世界がある事はよく分かっているつもりだ。


「しかし、そうか……」


 漏らした息にぼそりと乗った言葉をクラリスは聞き逃さなかった。


「なに?」

「い、いやあ別に」


 僕は適当に取り繕う。


「いやあ、ウォーカー家は確か子爵Viscountだったよね。家格も上だし良いことじゃないか。お姉さんも一緒なら心細くないしな。ああ、あれか、ハプスブルク流か」


 多少おどけて言う。彼女は頭がよくユーモアもあるから、「やめてよね、縁起でもない」くらい返してくれるだろう。

 という目論見は外れた。すぐに僕は後悔することになった。クラリスが僕の目を見て言った。


「その……死んじゃったの。お姉ちゃん」

「え」

「三日前。自動車の事故に巻き込まれ、たって」

「そんな」

「詳しくはき、聞けなかったけど、即死だった、みたい。……お姉ちゃんの、婚約者も。一緒に」


 努めて冷静に語ろうとするクラリスの目はどこを焦点にしていいか分からないように揺れていた。最後の方は鼻を押さえながら途切れ途切れになり、しまいには両手で顔を隠すと下を向いてしまった。


「ごめん。知らなかった」

「うん……」


 クラリスの家は四人家族だ。とても姉妹仲が良かったから、そのショックは察するに余りある。


「辛い、よな」

「ん……」


 通り一遍の慰めの言葉なんて傲慢すぎて口に出せなくて、かといって彼女が望むような気の利いたことも言えない。鉛を飲み込んだように胃が重くなった。

 絞り出すようなクラリスの言葉が続く。


「それなのに、結婚なんて。もう分かんなくて、私」


 クラリスのお姉さんが亡くなったいま、彼女が家督を受け継ぐことはもう確定した。そして代わりにウォーカー家との婚儀を結ぶことも。

 岩のように重い貴族の重圧が突然のしかかってきて、そこに彼女の意志は考慮されない。こういう時の女性は小切手のように、いわばただの物として考えられ、そのように扱われ、それを強要される。

 家族の死と貴族の重圧。今や二重の苦しみを背負うことになった彼女の立場に立って想像してみるが、僕の頭は今一つ要領を得なかった。分かるのはもはや僕の手に負えないということだけで、それを認めざるを得ないのが情けなかった。


「どうしよう……ハロルド」


 表情はうかがえないが、すっかり鼻声になったクラリスに名前を呼ばれる。いたたまれない気持ちになり、つい彼女の肩に手を伸ばしたが、僕は結局その震える体に触れることはできなかった。彼女はもう婚約済みの身だ。軽々しく触れることはもちろん、こうやって二人きりで話し込むというのも賢明な行為ではないのだ。

 逡巡したが、やがて冷酷非道な理性に僕は殴り倒されてしまった。クラリスが気づく前に伸ばした手を引っ込める。いつの間に出ていた手汗はズボンで拭った。

 何か言わなくては。何て言おうか。さしあたっては……。


「あの、クラリス」


 何らかのアクションを待っていたかのように、ピクリとクラリスの身体が揺れた。ゆっくりと顔を上げる彼女の目はためた涙で決壊しかかっていたが、それをこらえようと口は真一文字に結ばれていた。


「その」


 目を逸らして言う。


「今度、お姉さんのお墓に持って行くよ……花」


 しばしの間クラリスの目が僕の顔を見ていたが、僕はかたくなに視線を合わせなかった。どうにかしたいとは思うが、どうにもできないのだ。この沈黙がひたすらに辛かった。


「……。分かっ、た」


 やっとクラリスが呟いた。そして彼女は小さくうなずき、震える息を細く吐き出した。上を向いて何度か瞬くと、横を向き、そして下を向く。そのまま瞼を閉じ、大きな鉛を飲み込むようにゆっくりと息をしている。

 しばらくそうしていたが、その呼吸を区切るようにもう一つ息を吐いて僕を見た。それには不格好な笑顔がくっついていた。


「ありがと。そうしてくれると嬉しい」

「ああ」

「ごめんね、呼び止めちゃって」

「気にしないで。何かあったら相談に乗るさ」

「ええ、ありがとう……。これから取材?」


 僕のよれよれの肩掛けバッグを見て尋ねるクラリス。僕は努めて平静に一つうなずいた。


「そう、お仕事頑張ってるのね。今度はどんな記事を書くの?」

「救貧院の実体っていうテーマで書いてみようとね」

「あら、社会派ね。この前言っていたあの記事、あれはどうなったの? えーと……」


 こめかみを押さえて考えるクラリス。涙はどうやら引いたようだ。僕は肩をすくめて答えた。


「ウナギの新しい調理法だろ。ボツになったよ。縦に捌くのが難しすぎるってさ」

「へえ。記事って書いても採用されるとは限らないのね」

「まあね。会社が認めてくれないとダメなんだ。ウナギはまあ……前衛的過ぎた」

「記者って大変ね。それじゃあ私の苗字が変わるのと、パンチの紙面にあなたの名前が載るのとどっちが先か勝負ね」


 いつもの調子に戻ったクラリスはそう言って軽やかに踵を返した。


「いやパンチは駄目だろう!」


 思わずそう言うと、彼女は振り返ってアハハと笑い、小さく手を振った後、去って行った。その背はすこし寂しげにも見えた。


「……さてと」


 クラリスの姿が人と建物の景色に溶けていったのを見届けた僕は、間借りをしているタウンハウスへと帰ることにした。

 別に失恋をしたわけじゃない。恋愛感情もないし、そもそも恋仲などですらない。ただの幼馴染、それだけだ。

 ただ家督相続の必要がない者同士、結婚相手に関して多少の自由は効く。家の都合ではなく、自分の意志で選ぶことができたのだ。

 重ねて言うが、別に好きという訳でもなかったし、それにとびきりの美人でもない。もちろん決して不細工ではないが。とにかく、仲は良かったのだ。気の合うやつだった。

 その、まぁ。傲慢なのは承知だが。

 向こうがその気なら、別にいいかな。と、そう思うくらいには。


「今日は止めとこう」


 非常にまんじりとしない。そのようなわけで、今日の取材はやめる。執筆活動にはモチベーションが大切だ。その為には適宜休息を取らねばならない。

 寝室に備え付けのくたびれたマットレスと煤けた暖炉のにおいを思い出しながら、僕は自分にそう言い聞かせた。

 もう一週間以上、まともに記事を書いていない。

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