蒸気の帝国
山田(肉球)
長いプロローグと出演者たち
第1話
肌寒い帝国の夜には薄暗い
それは足元を流れる川の霧であり、昼夜を問わず稼働する工場からの煤煙でもある。
川沿いには並んで立つ二人の男と、やや離れた位置に止まっている三台の蒸気自動車があった。車から排出される煙がふわふわと空へ立ち昇っている。
「臭いな、相変わらず」
二人組の片割れがぼそりとつぶやいた。立派な身なりをした老人だった。体はでっぷりと太っており、鼻には小さな丸メガネが鎮座している。
レンズの先にはヘドロと夜の闇で濁った川、そしてその向こうに広がる貧民街があった。僅かな明りがちらほら見えるが、大体においてその街並みは川底と同じ色をしていた。
やや間をおいて、男がこぼした言葉に応える声があった。隣に立つ男だ。
「
こちらもきちんとした服装をしているが、その所作はどことなく雑である。目元のしわや無精ひげが壮年の労苦を忍ばせる。
無精ひげはメガネの男とは反対の方を見ていた。その先には巨大な工業地帯が立ち並び、さらに奥には庶民街、富裕層街、帝都中枢が続き、世界で最も大きく美しいと評される帝国首都の街並みが限りなく広がっていた。
レンガ造りの工場群から吐き出されるおびただしい黒煙が絶えず貧民街に向かって流れるように帝都は設計されており、絢爛な街並みが煤で汚れることはない。
「獣人か。まあ、肉体労働には最適な種だからな」
「……彼らは良い働き手ですよ。体力もあるし、忍耐強い。今やこの国の産業に不可欠な存在です」
「分かっておるよ。獣人にしても他の第三階級にしても、その重要性を帝国は良く理解しておる。皆まごうことなき帝国臣民だ」
非難と受け取ったのか、多少慌てた返答をするメガネ男。無精ひげは肩をすくめてポケットからタバコを出し、火をつける。重要性ではなく利便性だろう、という言葉は胸の中にしまった。
「とにかく、君は引き続き内偵を頼むよ」
やがてメガネ男が重い空気を払うように言った。無精ひげがうなずく。
「分かりました。でも本当にあるんですか? うちとこみたいなヤクザもんの溜まり場に『帝国を揺るがす秘密』なんて」
「この国は大きい。スネの傷なんていくつもあるよ。そんなもの、なければそれに越したことはない。ただし、もしそれが“あった”時が怖い……そう考えているんだよ。予防は治療に勝る、そうだろう」
諭すようににつぶやき、メガネ男は星のない夜空を見上げる。その顔を横目で見ながら無精ひげの男が神妙に答える。
「では……もしそれが“あった”として、それを知った俺があんたらを裏切る、とは思わないのですか」
「勘弁してくれ。まるでマフィアみたいな物言いじゃないか」
質の悪い冗談と見なしたのか、言葉とは裏腹にメガネ男が鼻で笑いながら言った。
「もうすっかりアウトローの生き方も板につきましたよ。どっちが本職か分かりません」
無精ひげは自嘲気味に笑い、短くなったタバコを川に投げた。
しばしの間をおいて、メガネ男が重々しく口を開いた。
「どれだけ手を汚そうとも君は皇帝の忠臣だ。わしが保証するよ。……済まないな、まっとうに生かせてあげられなくて」
「良いんですよ、俺は。息子を頼みます」
「勿論だ」
そうしてまた、しばしの沈黙。もう特に話すこともないので、さて、とほぼ同時に分かれる雰囲気を醸し出し、男たちは互いに向かって右手を差し出した。
「それじゃあ、また何か分かったら教えてくれ」
「分かりました。帰り道にお気をつけて、クレイ卿」
「ありがとう、オクトモア君。ま心配ないさ、あれだけいればな」
クレイ卿と呼ばれたメガネの男は、握手をしながら後方の蒸気自動車達にちらりと目を向けた。この密会の終わりを察したのか、ぞろぞろと数人の男女が車から出てきた。
「あれじゃあ逆に目立っちまいますよ」
「わしもそう思う。今日は別に護衛がついとるからいらんと言ったのだがな、どうにも融通が利かん。今朝方なんか、あそこの若造にわしのステッキはどこだと聞いたら警察署にまで走っていきおったよ」
「ハハハ、さすが公務員ですな。それではまた」
「ああ、ありがとう」
談笑を終え、お互い背を向けて歩き出そうとした、その時。
オクトモアの視界の端で、何かが動いた。
「ん?」
見間違いではなかった。黒い小さな影が護衛集団の後方から音もなくこちらに迫っている。
「おいッ! あれ!」
オクトモアが指さす。フードのついた黒いロングコート。その中には燃えるような双眸があった。
影は最後尾の護衛のそばに迫っていた。危険を察知した別の護衛が叫ぶ。
「ベニー! 避けろ!!」
「なん、うッ!?」
しかし侵入者は驚くべき速さで手を伸ばして振り向いた護衛の首を掴み、ためらいなく手を横に払った。
「がっ」
その身体がわずかに震えて、そして止まった。そして今の緊張が嘘のようにゆっくりとこちらを向いた。
その顎下から鎖骨までの隙間の皮膚がなくなっていた。代わりに、ずたずたに断裂したサーモンピンクの筋組織と、引き千切られて体外にはみ出た血管、そして喉骨が覗いていた。
不思議そうな表情とは裏腹に、すぐに馬鹿みたいな量の赤い液体が溢れ出して胸元から下腹部を染め上げていった。肺の動きに合わせて血管から血がドボドボ溢れては垂れ流されていく。
「はひゅッ」
その唇が震えた。即死ではなかった。
ほとんど千切れた綱のような咬筋がぶちぶちと切れていき、とうとう支える力を失った顎がだらんと開いた。その奥は粘性のある鮮やかな赤色で染まっていた。
「ごぽっ」
男の口腔内で膨らんだ血の泡が割れた。震えながら伸ばした右手に全員がたじろぐ。
そして目尻から血の混じった涙が一筋落ち、眼球がぐりんと宙を向いた瞬間、その体は糸が切れたように崩れ落ちた。
倒れた衝撃でその喉は大口を開ける蛇のようにばっくりと裂け、後頭部が肩甲骨に当たるほどのけぞった。石の道路にドロドロとした血の海を広げていく。
「い、いやァァッ!!」
皆が固まる中、護衛の中から一人の若い女が金切声をあげて飛び出し、骸となった体に覆いかぶさった。
「マリアッ! 離れろ! 離れるんだ!!」
「いや、いや、そんなッ、ベン! いやあああああ!!」
我に返った護衛達が銃を取り出しながら叫ぶが、声は届いていない。
女は遺体の服を掴んで揺さぶりながら嗚咽交じりの絶叫を上げる。すぐそばに、その後頭部を見下ろす影があるのもお構いなしに。
「マリア! 逃げろー!」
「撃て! 撃てッ」
「卿をお守りしろ! 早く車へ!!」
虚を突かれたとはいえ護衛達も帝国が誇る妙々たるエリートである。堰を切ったように動き出し、ある者は拳銃を発砲し、ある者は主人の元へ駆け出す。
「何だ、あれは……!?」
クレイ卿とオクトモアは動揺し、動けずにいた。片方は自分が身を置いていた世界での経験があるから分かる、体躯に似つかわしくない強引な殺害方法から読み取れるその膂力に。片方はその存在が醸し出す産毛が逆立つほどの魔力に。
いくつもの銃声が鳴る中で、先程の女の泣き叫ぶ声がはたと止んだ。
夜の闇の中、離れたクレイ卿らの位置からではよく見えなかったが、死んだ男のそばでモップの頭のような塊が僅かに揺れ、そしてごろりと転がり落ちた。
震える指でずれたメガネを直そうとしたクレイ卿の視界に護衛の一人が飛び込んできた。いつの間にか腰が抜けていたらしく、腕を掴まれ無理やり立たされる。
「卿! はやく車へ!! オクトモアさん、あなたも逃げて!」
直後、叫ぶ護衛の後ろでダン、と鈍い音がした。振り向くと、その塊が大きな弧を描いて頭上を飛んでいた。銃弾を掻い潜ったそれが蒸気自動車の上に登り、天井を踏んで跳躍したのだ。その両袖は真っ赤に染まっており、指先から滴った液体がクレイ卿の頬に降りかかった。小さな体は軽々とクレイ卿の身体を飛び越え、走り出していたオクトモアの背中にとびかかる。
「ぐわッ!! なんだッ、てめえは!」
それはうつ伏せに倒れたオクトモアにのしかかると、両手首を掴んで地面に抑えつけた。
そしてゆっくりと上半身を倒し前かがみになった。フードに隠された頭部がオクトモアのうなじに近づけられていく。
「何をするッやめろ! やめああああぁ!!」
凄まじい絶叫が走り、オクトモアが全身を揺すって抵抗する。しかしそんなものは何の問題でもないかのようにそれは体勢を崩さず、頭だけが上下に動く。
「がああぁあ! やめろぉぉおおお!! ああああッ!!」
パキパキと軽くて固いものが割られ、砕ける音が聞こえた。
その時、そばにいた護衛が後ろからそれに掴みかかった。
「このッ!! 放すんだ!」
的確な動きでそれの肩に腕を回し、羽交い絞めにする。屈強な男に掴まれ、オクトモアの体から引き離された瞬間、ブチブチブチッと嫌な音がした。オクトモアの両足が痙攣している。
「卿! 今のうちに逃――」
護衛の言葉が終わる前に、それは猫のように彼の胸元から滑り降り、くるりと回るとその内太ももに爪を立て、引き裂いた。
「ひッ」
崩れて膝立ちになる護衛。大柄な体躯の横からそれが現れた。フードが少し横にずれ、容貌をわずかに覗かせた。
白い肌に小さな口と鼻。口から喉にかけて赤く染まっている。そして燃えるような古い血の色をした瞳。その中を走る蛇のような瞳孔はまっすぐクレイ卿の顔を見据えている。
「き、君はっ」
思わずクレイ卿が口走る。それは腰をかがめ、まっすぐ彼に詰め寄ってきた。
「なぜこんなことをっ」
説得しようしたのではない。純粋な疑問が口をついて出たのだ。
しかし直後に来たのはズン、と全身に響く腹部への衝撃だった。目を見開いて下を向くと、メガネが固い石の道路に落ちてひび割れた。ぼやける視界で見えたのは、膨らんだ自身の腹の中へずるずると入ってくる白くて赤い腕。
「ああ、ああぁ……」
静脈が薄く浮き出る腕の上に自分の脂汗がぼたぼたと垂れ落ちる。体が命の危機を感じたのか、膝ががくがくと震え出したが、鈍重な上半身を支えきれずに崩れ落ちる。
「“なぜ”――?」
無機質なオウム返し。膝立ちになるクレイ卿に目線を合わせながら、それが初めて声を発した。
卿は青白く染まってく頬の肉をぶるぶる震わせながら目を上げ、その顔を見た。その瞳は雄弁に語っており、口元は極々わずかな微笑をたたえていた。
ぐちゅ。
腹の中で細くてしなやかな五指が蠢いている。くちゅり、くちゅくちゅ……。
粘性のある液体音と空気を混ぜ合わせる奇妙な音は、下腹部の傷口からか、それともその奥から聞こえてくるのか分からない。不思議なことに痛みはなかったが、おぞましい圧迫感が腹腔内にあった。いっそのこと痛みで気を失う方が幾分か楽かもしれない。卿は自分の全身が急激に冷たくなっていくのが分かった。
「復讐」
びゅ。それが手を引き抜いた。出口が開けられた穴に臓器が詰まった体内の圧力が加わり、膨れた腹を構成する薄い筋肉と分厚い脂肪の層をかき分けた腸が、まるで宿主の死を悟った寄生虫が逃げ出すように震えながらあふれ出てくる。にゅる。ぶじゅるぶじゅる。
「あぁ……」
クレイ卿の動きが鈍ってきた。その様子を見ながらそれがゆっくりと立ちあがった。
直後、慌ただしい靴音が飛び込んできた。鳴り響く銃声。
「うぁッ」
それが肩を押さえ、体勢を崩した。さらに数発の乾いた銃声。
「あ、うっ」
くぐもったうめき声が聞こえる。よろめき、腹を抱えるように頭を地面に打ち付けた。それでも無理やり立ち上がろうとそれの足は地面を擦っていた。
「クレイ卿! しっかりしてください!」
クレイ卿の意識が混濁してきた。まるでまどろみの中にいるようだ。浅い呼吸がだんだんと深くなっていく。吐いた分と同じだけの空気を吸うのが大変だった。
そして、彼が瞼を閉じるまでの間に、全身を撃たれたそれは這いつくばりながら汚泥とゴミにまみれた帝都の川に落ちて消えていった。
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