やんわりと、朝食のトーストの匂いがする。ドアの隙間から入り込んだその匂いは、昨日の夜開けたまま寝てしまったらしい窓から、流れるように出ていく。

 外からは青い芝生の匂いが漂う。しっかり刈られた芝生は青々として美しい。蒲公英の花が太陽の方を向いて顔を上げている。

 吹き付ける風に、ミオルアは静かに目を覚ました。

 内側では早鐘を打つ心臓が、ミオルアの五感を研ぎ澄ます。嫌な夢を見たと思いながら、ミオルアは重たい体を引きずるように起こした。

 部屋は簡素なつくりの家具でレイアウトされている。木製のクローゼットは金具に少し錆が浮いており、開けるとキィキィと音をたてた。

 白いシャツに、履きならされたジーパンを履いて、靴のかかとをそろえる。腕には形見のブレスレットが琥珀色に輝いていた。

 ふと、部屋の扉の外を通る気配に気が付く。寝癖を直しながら、身を潜めて、気配が過ぎ去るのを待った。昨日の今日で、しかも朝一で遭遇するなんてことがあれば、今日一日気まずい空気で過ごさなければならないのは必至だったからだ。

(…行ったか)

 気配が過ぎ去ったのを確認し、ミオルアは準備を整えた。ジーパンの腰にはダガーを提げ、紋章の刻まれた手帳を外套の内側に潜ませる。さらに、今日が買い出し当番であることを思い出し、お金を入れておく用の小銭入れを持った。

 そして先ほどの気配の持ち主とばったり鉢合わせたりしないよう、慎重に部屋を出た。


 古い洋館を思わせる内装。吹き抜けの一番上の天井には、これでもかというくらいに巨大なシャンデリアが飾られている。部屋の前のこげ茶色の手すりには装飾が施され、過去の文化を感じさせていた。

 吹き抜けを貫く大きならせん階段を降りると、トーストの匂いはさらに強くなった。同時に、人の気配も。

「おや、はやいねミオルア」

 色白の肌に白い髪、紅い瞳。すらりとした高身長に、しっかりしたスーツを着込んでいる様は、まるで夜の人だ。お酒が出てきても不思議じゃない様相だが、今は昼間だ。

「アレイこそ、いつもこんな早く起きて何やってんだよ」

「あはは、気になるかい?」

 聞かない方がいいと思うけどねえ。と、そう言って彼は、眉尻を提げて笑った。

「吸血鬼ってみんな早起きなの」

 ミオルアがそう聞くと、アレイはそんなことないよと再び笑った。

「まあ、むしろ逆だよね。昼間寝るやつがほとんどさ」

「ふーん…」

 アレイは冷蔵庫からバターと蜂蜜を取り出して、ミオルアにどっちがいい?と聞く。

「蜂蜜」

「はい、どーぞ」

「ども」

 カウンターの上に置かれたトーストと、蜂蜜。ミオルアはスツールを引っ張って腰かけると、いただきます小さく言った。

 こんがりときつね色に焼かれたトーストに、あめ色の蜂蜜を垂らす。たっぷりだ。そしてナイフでトーストを小さく分ける。あふれるほど垂らされた蜂蜜を絡めて、口いっぱいに放り込んだ。

 ミオルアは自然とほほが緩んだ。懐かしい味だとがんがえながら。

「おいしそうに食べるよね~」

「…ふるはい」

 アレイはふふっと笑ってミオルアを見る。見られたのが恥ずかしかったのか、二口目からは無表情になってしまったが。

 一通り食べ終え、飲み干したところで、ミオルアはアレイに聞く。

「あいつは?」

「ああ、彼ならご飯を食べる前の散歩に行ったよ」

「ふーん」

 先ほどのドアの前を通った気配の主。できるだけ鉢合わせたくないなと思って避けたが…もしかすると、意味はなかったかもしれない。

(優雅なもんだな、妖精ってやつは)

 ミオルアはそんなことを考えながら、トーストを頬張る。

「そうそう、今日ミオルアが買い出し担当でしょ。ジンがそこにメモ置いてったよ」

「あ、さんきゅ」

 さくらんぼをかたどった銀色の文鎮の下に、小さなメモが置いてある。買い出し用のメモだ。食材だけでなく、そこにはほかの生活必需品も含まれていた。

 ミオルアはそれを小銭入れに入れ、残りのトーストを平らげると、「ごちそうさま」と言って立ち上がった。

「もう行くの?早くないかい」

「朝市ならやってるだろ。食材はそこで買う」

「そっかそっか。そしたら、

 アレイの言葉の真意をくみ取って、ミオルアは裏口の方へ歩を進めた。

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