Episode016 ぬくもり
…――あたしは彼のぬくもりを感じられない。
いや、正確には感じられなくなってしまった。
そう彼に言うと、彼は苦笑いしながらも、いつも、こう答える。
君は優しいからと……。
ここは、
片田舎の小さな町工場。
あたしの大切な仕事場。
父と母が、大事に守り続けた宝物。
基盤に小さなネジを付けてしめる。
あたしの彼は都会の大学で機械工学を専攻している。子供の頃から機械が好きで大人になってからも機械を愛し続けた。だからメカニカルエンジニアになる為、勉強している。つまり、あたしと彼は、離れた地で別々の道を歩いているんだ。
本当は、
こんな現在なんか望んでなかった。
彼と、ずっと一緒にいたかった。ぬくもりを感じられる距離で。
だから、
遠距離恋愛と言えば聞こえはいいが、実際には忘却の距離を挟んだ恋愛だと思う。
もちろん、彼自身が、あたしを忘れたいとかいった事ではない。
距離に阻まれ、彼を直に感じられなくなったから、段々、あたしの方が彼を忘れていくような気がしてしまい怖くなっているだけの話だ。その話を彼にすると、いつも優しく慰めてくれる。それでも、やっぱり、あたしは、ぬくもりが欲しくて。
それはワガママだと分かっている。
それでもそれでも……。
悲しくなるのは、仕方がないんだ。
あたしは弱いから、ヘタレだから。
空調などといった洒落たものなどない工場(こうば)で、汗をかいて働き続ける。
と唐突。
作業着のポケットに無造作に突っ込んであったスマホが震える。
誰からだろう? と心を微かに弾ませてからスマホを取り出す。
彼だッ!
小さな部品との格闘を一時中断して首にかけてあったタオルで汗を拭う。オイルで汚れた手も拭く。外では桜が咲いてから散った。徐々に温かくなってきた。春が近づいている。風が、まだ少し冷たいが、とても過ごしやすい季節。でも……、
熱が篭もる工場は暑い。
ふうっと大きく息を吐いてから彼を思い出す。
高校生だった、あの日。
寒い冬。
そっとあたしの手を握ってくれ、とても温かいぬくもりを、その右手に感じて。
彼は、あたしに告白してくれた。子供の頃からずっと一緒で幼馴染みとして育ってきた彼。だからこそ幼馴染みで終わりたくないから付き合って欲しいと言われた。あたしも、ずっと彼が好きだったから、その時、死ぬほど嬉しくて泣いてしまった。
泣いてしまったあたしを見た彼は慌てて、でも、そっと優しく頭を撫でてくれた。
その手もまた温かくて。
そんな事を思いだして震え続けるスマホに表示されている名前を見て涙がにじむ。
今は……遠いと寂しく。
付き合ってからのあたしと彼はいつも一緒にいた。飽きるほど。
いつでも、お互いにお互いのぬくもりを感じられる距離にいた。
そんな幸せが、いつまでも続くって信じてた。
でもね。
「ちょっと休憩入ります」
と工場長代理兼経理係の母に小さく告げてから休憩室へと急ぐ。
いくらかの切なさと共に涙を吹っ切って元気な声で電話に出る。
「もしもし……あたし」
ぬくもりは決して感じられないけど、それでも話し声だけでも聞ければと微笑む。
あたしが彼の夢を知ったのは高校二年生の夏。
夢を叶える為に都会の大学へ進学したいと打ち明けられた。あたしは成績がいい方じゃなかったから、彼が望む大学へ一緒に進学するのは絶望的だった。簡単に言えば、あたしの学力では彼が進学したいと願う大学の門も叩けないレベルだった。
それでも、彼はこう言ってくれた。一緒に頑張れば大丈夫だと。
当然だけど、初めの始めから救いがない戦い。
それでも、いくら望み薄の戦いだろうとも彼と一丸になって頑張った。彼も親身になって勉強をみてくれた。あの時ほど、なにかを頑張った覚えはないと言えるほどに努力した。全ての持てるものを犠牲にして夢を叶えようと必死になった。
流れ落ちる苦労など苦労だとも感じなかった。
そして、
その果て、担任の先生から、よく頑張ったな、これだったら大丈夫だと言われた。
うん、そう、志望校である彼の目指す大学に行けると、お墨付きをもらったんだ。
あたしは飛び上がって喜んだ。彼も、自分の事のように喜んだ。
いや、むしろ当時のあたしと彼は一心同体だったから自分の事として喜んだんだ。
これは、恥ずかしいから秘密にしているけど。
その時、
隠れて密かに泣いた。
一人で。
やったんだ。あたしは、やり遂げたんだ、と。
そうして、勝ち目が薄かった戦いに勝利する寸前まできたんだ。
でもね。
そう、でもねなんだ。
受験を直前に控えて、
あたしが最後の追い込みをしていた時、万全の準備で受験に挑もうとした時にさ。
あたしの父親が、交通事故に遭ってしまった。
ウチの家計は父が経営する町工場で作る部品を大企業に納める事で成り立っていた。そんな父が事故に遭って入院する事になってしまったんだ。家計が切迫してしまい、工場長を失った町工場も、もちろんピンチ。なんでよって思った。
なんで神様は、あたしに、こんなにも過酷な運命を与えるのかって天を恨んだよ。
そして、
父を含め、たったの三人で回していた工場だったから二人になってしまって……。
でも、苦しかったんだろうけど、それでもラインは動き続けた。
懸命に工場は回った。
母と、もう一人、通いの従業員さんの力でだ。
あたしが彼と一緒の大学に行く為、頑張ったよう工場も必死で耐えてくれたんだ。
だけど、悲しいかな、
父が入院した事で、競合他社の町工場へと仕事が流れていった。
営業手腕に定評があった父の入院をいい事に好機と考えた別の町工場が在ったんだ。部品の納入先である企業に他社が売り込みをかけた。そして、あたしの父親が経営していた町工場の仕事が激減した。そう。あたしは運命の調律に弾かれたんだ。
それでも母は小さな部品と格闘してながら必死になってくれて。
真冬で凍える中、冷たい水を部品にかけながら頑張ってくれた。
小さな、あかぎれだらけの手を真っ赤にして。
「あんたは、何も心配しないで勉強、頑張んな」
ってさ。
そこまで切羽詰まってギリギリでも、まだ、あたしの進学を応援してくれたんだ。
だからだよ。だからこそね。こう決めたんだ。
あたしは高校の卒業と同時に父親の町工場を手伝うんだってさ。
父や母を助けたいって思ったんだ。
少しでも、なにかしらでも助けになればって。
無論、それは、彼と離ればなれになるって事。
言うまでもないけど、離ればなれは、覚悟の上で決めたつもりだった。でも、やっぱり、つもりに過ぎなかったんだろうね。いざ、彼と離ればなれになって、こんなにも、ぬくもりが恋しくなるなんて思わなかった。こんなにも悲しくなるって……、
全然、思わなかった。
そして、
あたしは、彼の優しいぬくもりが感じられなくなってしまった。
距離に邪魔されて彼を近くに感じられなくなってしまったんだ。
「うんうん。そっちはどう? 温かくなった?」
会話を続けていても、やっぱり悲しくなる。寂しくなる。切なくなる。涙が出る。
近くに彼を感じたいんだと心が悲鳴をあげる。
愛しい彼のぬくもりを感じられないから……。
どんなに楽しく話しても心が寂しく折れそうになっているから。
この世で、たった一人の彼を身近に感じられないから心が枯れる。枯れて心の幹が真っ二つに裂ける。芽吹きの季節にも拘わらず、葉も全て落ちてしまって弱った木は死に絶えそうになる。恋心という樹木は確実に滅びへと向かって突き進む。
死にたくない。消えたくないんだと心が叫ぶ。
大きな悲鳴を上げる。
もの悲しくも苦しく。
悲痛に。
「うん、ありがとうね」
そして、
彼との会話が終わる。
会話が終わって、哀しみが頭をもたげてくる。
そんな頭の中に原色の絵の具をぶちまけられて、ぐるぐると揺らめき回る奇々怪々な絵とも言えないものが表れては奇得る。奇得ては顕れ、そして消える。その繰り返し。恋心の生と死を著す、それは言葉では上手く表現できない苦痛でしかない。
いつか。
そう、いつか、彼の優しいぬくもりは永遠に失われるんじゃないかとさえ感じる。
あたしの中から永遠に消え去ってしまうんじゃないかとも思う。
「うん。またね。電話、待ってるよ」
電話が。
電話が終わってしまう。もう……。
じゃあと言えない。言いたくない。
さよならなんて絶対に言えない。言ったら本当にさよならになってしまいそうで。
と……。
電話が切れる瞬間、彼が何かしらをつぶやく。
小さく。
「そうだ」
彼は微笑んでいるんだろうか優しくも続ける。
あたしは意味が分からずに、じっと押し黙る。
「前に僕のぬくもりが感じられなくて寂しいって言ってたよね?」
静かに二の句を待つ。
「大丈夫だよ。安心して。だって、ぬくもりは、そこに在るもの」
なにを言い出したのか、まったく分からない。
あなたのぬくもりが、そこに在る? どこに?
「今、スマホを持っているだろう? そのスマホは温かいよね?」
スマホ。
「ほんのりでも温かいよね? それは、何で温かいのか分かる?」
そうか。
スマホ。
機械工学を学んで機械を愛する彼らしい言葉。
「答えは僕らが今、話していたからだよ。話していたからこそ温かいんだ。そのぬくもりこそが僕らが会話をしていた証拠なんだ。愛を育んだ証拠。分かるかい?」
話していた証拠。だからこそ、彼のぬくもり。
ちょこっとだけ力を入れスマホを握ってみる。
温かい。
彼は、二の句を繋ぐ。
「クサイ事言ってごめん。ただ優しい君が、優しいからこそ感じている哀しさを少しでも和らげたいって思ってさ。今は、そんなスマホのぬくもりだけだけど我慢して」
きっと、
きっと、
きっと、夢を叶えたら、君を迎えに行くから。
結婚して下さいって君に伝えるから、今は、スマホのぬくもりだけで、ごめんね。
僕がメカニカルエンジニアになったら君の父親の町工場も……。
君のご両親に生意気だって言われそうだけど。
そして、彼からの電話が切れた。静かに……。
あたしは、まだスマホを、ぎゅっと握ってて。
温かい。
なんて事を心の中で、淡くも想い続けていた。
そして、
ありがとうって……。
そう想って、泣いた。
温かいスマホを両手で優しく包んで、胸の前で握りしめながら。
お終い。
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