Sの「ほんとう」の話
いわし
Sの「ほんとう」の話
昔級友に、Sというものがいた。
Sは幼少から剣道をたしなみ、かつ見目麗しい秀才で、大人たちの覚えめでたき文武両道の優等生であった。
そういったものは得てして、同じ子ども内ではやっかまれるものだが、それがどうして仲間内でも人気者であった。
私はこれと言って特技も長所もない、平々凡々な子どもであったが、何故かSは私を側に置きたがった。家が近いだけで家柄もよくはない私とつるむことに何の得があったのか。それは今も分からないが、当時はほんの少し自慢であった。
Sはおよそ、同じ年ごろの子どもが興味を示すようなことに、少しも気を惹かれないようであった。
虫集めも、泥遊びも、チャンバラごっこも好かぬようだったが、背を向けるでも眉をしかめるでもなく、ただニコニコと微笑って、それに興じる私達を遠くから眺めている。時折近くへやってきては、すずやかなよい声で、これほど大きな蟷螂をよく捕らまえたねだとか、このすばらしい砂の城は誰が作ったんだいとか、君はほんとうに強いなあとか、大人のように子どもたちを褒めた。
そういったところも、子ども内で人気を得たゆえんであったろう。私達は何とかしてSからお褒めの言葉をいただこうと、時にむきになったりしたものだった。
Sの好きなものは、本、それも少年雑誌のようなものでなく、漢字勝ちな小さな文字が紙面をギッシリ埋め尽くすような、重くかたい本であった。
膝の上に大きな本をひらいて載せ、背筋をスッと伸ばしたまま、細い首を少しだけうつむけてそれに目を落とすSの姿は、年長の女学生にさえよくため息をつかせていた。
実際、Sの見目は、あの鄙びた場所では場違いなほどの整いようであった。周りの垢ぬけぬ子どもたち(私達のことである)との相対による効果かも分らぬが、Sは一種の高貴さというか、神々しさのようなものをまとっていたとさえ思われる。
Sの父君は階級は知らぬが陸軍の偉い人であった。
ある時、Sと共に下校していると、二学年下の少年から罵声を浴びせられた。聞けば彼の父君が戦死なさったらしい。その命令を下したのは上官であるSの父で、故に彼の父君を殺したのはSの父だ、だから自分にはSを罵倒する権利がある、との論法であった。
今にして思えば、父を亡くしたばかりの憐れな少年だ。だが当時の(Sに心酔していた)私は、門違いの罵倒を投げつけたその少年に、いっそ憎しみさえ覚えていた。もしSが不快そうな表情のひとつでも見せれば、少年に飛びかかっていたやもしれぬ。
Sは、喚き続ける少年に反論も相槌もせず、ただまっすぐ彼と目を合わせ、じっと黙ってその罵倒を聞いていた。やがて罵詈雑言も弾切れとなったのか、少年は顔を真っ赤にして肩で荒い息をつくだけとなった。彼に向け、Sがようやく口を開いた。
「すまなかった、ほんとうに有難う」
自分の耳を疑ったのは、私だけではなかった。目の前の少年も目を丸くしキョトンとした顔で突っ立っていた。表情のせいで、先ほどの激昂した顔より二つ三つ幼く見えた。
Sは唖然としたままの少年に、父の命令を信じ勇敢に戦ってくれたことへの謝意、彼の父君のことは父からの手紙で優秀な兵卒だとよく聞いていた旨、それを失ったことは少年とその家族だけでなくこの国にとっても大きな損失である旨、大黒柱を失い困ることがあればいつでも援助を申し出る旨を、しずかに滔々と語った。
「僕は父を尊敬している。けれど、その父でも君のご尊父を守れなかった。僕はきっと父以上の立派な人になって、君や君のご家族を守ってみせるから」
Sは泣いていた。はらはらと落ちる涙はこの世のものとは思われぬほど美しく、またその言葉の純粋な貴さにも心を揺さぶられ、少年のみならず私までもがもらい泣きに涙を流していた。
泣きながら謝罪した後帰ってゆく少年の姿が角を曲がって見えなくなるまで、Sは見送っていた。
私達はまた家路をたどり始めた。私は洟をすすりながら、今まで以上の尊敬をこめてSに、父君の後を継いで将校になるのかと尋ねた。Sならきっとよい大将になるだろうと思っていた。あるいは政治家もよいかもしれぬ、などと。
Sはゆっくりと私を見上げて、私達が遊んでいるのを遠くから眺めている時とそっくり同じ顔で、ニコニコと笑って答えた。
「さっきの言葉はぜんぶ嘘だよ」
その言葉を聞いた私は、思わず歩みを止めてしまった。
「僕は彼の父君どころか彼の名前も知らないし、戦場の父から手紙など来たことはないし、父を尊敬してなどいない」
私に合わせ数歩先で足を止めたSが、先ほど少年と私の心を震わせた玲瓏な声が、先ほどの言葉をすべて覆してゆく。私はその時初めて、Sの微笑う姿をおそろしいと感じた。私の畏怖がそう見せたのか、黄昏時の夕日による錯覚か、Sはそれまで見せたことのない歪な笑い方をしているようであった。
私が蛇ににらまれた蛙のように動けずにいると、Sが不意に吹き出した。
「君はとても信じやすい性質だね、気を付けた方がいい」
私は数秒遅れて、Sにからかわれたのだと気付いた。
「なんだ。それじゃああの少年に語った言葉が、ほんとうなのだね」
「そうさ。ほんとうだよ」
「ほんとうにほんとうだね」
「ほんとうに、ほんとうのほんとうだよ」
声を上げて笑うSと一緒になって、見事に一杯食わされた照れ隠しに笑い声をはりあげた。笑うことで、先ほどの畏怖を吹き飛ばしてしまいたかった。
Sの家の玄関先で別れる時、尊敬する父君によろしく、とおどけて敬礼をして見せた。その時のSの表情は、玄関扉から漏れる灯りで逆光になり、確とは見ることができなかった。気にも留まらぬほどの刹那の間沈黙が流れ、また明日、と言ったSの声は、いつも通りすずやかであった。
のちに別々の学校へ進んだ私とSは、自然と疎遠になった。
長じた私は仕事の都合で故郷を離れ、遠く離れた任地でSの父君とS本人の訃報が掲載された新聞を読んだ。そもそも訃報というもの自体穏健ではないが、二人の訃報はより剣呑なものであった。
Sの父君は殺害されたのであり、その下手人はSであった。父を殺し、そのまま自らも命を絶ったとの報道。Sの父君の遺体には執拗に幾度も幾度も凶器の刃物を振るわれた痕があり、相当の怨恨が窺えるとのことだった。
名前の後ろに「容疑者」とつけられた不鮮明な写真は、記憶の中のSに似ているような似ておらぬような、よく分からぬものであった。
犯行が衝動的なものなのか計画的なものであったのか、後者であったならいつからその思いをくすぶらせていたのか、どのような思いで父君を手にかけ、そして自らの命までをも絶ち斬ったのか。
「ほんとうに、ほんとうのほんとうだよ」と言ったSのすずやかな声は、今もまだ思い出せる。だがその玲瓏な声の奥にあったはずのSの「ほんとう」は、永遠に分からぬままとなった。
Sの「ほんとう」の話 いわし @iwashi1456
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