第11話 まどろみの姫
歩き出してほどなく車を乗り降りする物音と、それに続いて一定の速度で後をつけてくる足音が聞こえた。音を消す靴底でも、尾行に慣れたわたしは追跡者の汗や息遣いに含まれるハンターの匂いを敏感に嗅ぎ取れるのだった。
――どうする?タクシーはあきらめるか。
もしあの車両に敵がいるのなら、地下鉄かバスを乗り継ぐことで追っ手を巻くことはできる。わたしは歩調を変えぬよう意識しつつ、目で逃げられそうな場所を探した。
やがて少し先のビルに地下鉄駅を示す袖看板が見え、わたしはほっと安堵の息を漏らした。よもや人通りの多い目抜き通りで拉致行為に及ぶことはないだろう、そう思って歩調を緩めた、その時だった。
――あれ?
前方に見える風景に、明らかな違和感が生じていた。前進しているにも関わらず、少し先にある地下鉄の駅看板が一向に近づいてこないのだ。
わたしは工作員仕様の特殊インカムを装着すると、情報の収集と解析を担当している『ミネルヴァ』に呼びかけた。
――こちら『人質姫』。K通りの地下鉄M駅付近で尾行者と遭遇。前方の駅にいくら歩いても着かないんだけど、何が起きてるかわかる?
わたしが手短に事態を告げると間を置かず、眠そうなしわがれ声が返ってきた。
――ああ、わかりますよ。そいつは催眠工作員『ヒュプノイド』ですな。お嬢さんあんた、術にかかっとるんですよ。
わたしが?はっとして前方に目を遣った瞬間、わたしの身体を異変が襲った。さっきまで確かな形を保っていた駅看板の輪郭がゆらぎ、耳の奥で虫の羽音に似たノイズが響いた。
――おしえて『ミネルヴァ』。こいつの催眠攻撃から逃れるにはどうしたらいいの?
――これはお戯れを。勝ち目などまず、ありませんな。逃げた方が得策です。
『ミネルヴァ』の間延びした声に、わたしは事態が絶望的であることを悟った。やれやれ、『人質姫』も年貢の納め時か――そう思った瞬間、目の前がぐにゃりと歪み、あたりの風景が一変した。
――ここは?
わたしが立っていたのは夜の繁華街ではなく、どこかの研究施設の中だった。
――この風景には見覚えがあるわ。ここは……『王虎塾』の生体研究所だ!
無機質な廊下と等間隔に連なる灰色の扉はわたしの過去をこじ開け、忌まわしい記憶を呼び起こした。こんな悪趣味な催眠になど、断じて負けるものか――そう思った瞬間、廊下の奥から小さな人影が姿を現した。
「助けて……誰か助けて」
パジャマ姿の少女を見たとたん、わたしは駆け寄って抱きしめたい衝動にかられた。
「亜里沙!」
少女はわたしが十年前、監禁されていた研究所で出逢った四歳の少女だった。『青髭』と共に研究所を脱出する途中はぐれてしまい、今もって消息は不明だ。
「お姉ちゃん……助けて」
ふらふらとおぼつかない足取りで近づいてきた少女を、わたしは思わず抱き上げていた。
「ごめんね、亜里沙……今度こそちゃんと助けるからね」
深い後悔が胸の中にあふれたわたしは亜里沙を抱きしめ、蜂蜜色の髪をやさしく撫でた。……と、その時、わたしの中である種の警報音が鳴り響いた。
――違う!亜里沙じゃない!
首筋にかかる生臭い息にはっとして顔を離すと、人形のような少女の口が耳まで裂け、中からびっしりと並んだ鋭い歯がのぞいた。
しまった、そう気づいて少女を引き離そうとした瞬間、「ぎゃっ」という叫び声がして腕の中の塊がわたしから飛びのいた。
同時に灰色の壁が周囲から消え失せ、目抜き通りではない裏路地の風景が眼前に現れた。
「ぐるるる……」
目の前で血走った眼をして唸っていたのは、一匹の小型犬だった。見た目こそ可愛らしいが、戦闘に特化された個体であることは一目瞭然だった。わたしははっとして、自分の両手を見た。伸びて尖った爪の先が、獣の血に塗れていた。おそらく危機を察知したわたしの『身体』が、咄嗟に敵の攻撃を回避したのだろう。
「――やりますな、さすがは『人質姫』だ」
ふいに飛んできた低い声がわたしの心臓を鷲掴みにした。振り返ると、目の前に黒い服に身を包んだ見知らぬ中年男が立っていた。
「あなたがヒュプノイドね。ひどい夢を見せてくれたお礼を言うわ」
「いえいえ、礼には及びません、ほんのサービスですよ。お嬢さん」
わたしは帽子の庇に隠れた男の目を睨み付けながら、突然、訪れた窮地をどうやってしのぐかを算段し始めた。訳あって『六人のわたし』はまだ目を覚ますことができない。わたしは自分の胸にそっと手を遣ると、『ミネルヴァ』の言う通り逃げるべきだなと思った。
「そこをどいて。家に帰るの」
わたしが言い放つと、ヒュプノイドは「ご冗談でしょう」と嘲るような笑みを浮かべた。
「ご自分の立場を理解していないようですな、お姫様」
「門限を過ぎたらお父様に外出禁止令を出されちゃうわ。そうなったらあなた、責任を取れて?」
「強がりもほどほどにするんですな、姫様。あなたが今、十分に『力』を使えないことは調査済みなのです」
男のせせら笑う姿を見て、わたしはささやかな望みが完全に断ち切られたことを悟った。
「では、そろそろ『攫われて』いただきますよ。……おい、やれっ」
男が檄を飛ばすと、物陰から山のような人影が姿を現した。灰色のフード付きパーカーに身を包んだその人物は、身の丈がゆうに二メートルを超える巨漢だった。
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