第12話 遅刻常習の王子


「悪いけど、誘拐ならまたの機会にして。……あっ」


 横に跳びのいてそのまま駆けだそうとしたわたしの右手を、風を切り裂いて飛んできた何かが縛めた。次の瞬間、付け根から取れるのではないかと思うほど強い力で腕を引かれ、わたしは歩道に身体を叩きつけられた。


「痛……」


 わたしが片手をついて体を起こすと、今度は先ほどにも増して強い力で右手を上に引かれた。


「……ううっ」


 操り人形のように吊り上げられ、無理やり立たされたわたしは自分が置かれた状況に目を瞠った。わたしと巨漢の右手は、手枷から伸びている長い鎖でつながれていたのだ。


「もう逃げることはできません。下手に動くと今度は体中の骨がばらばらになりますよ」


 ヒュプノイドはそう嘯くと、わたしの前に立っていきなりドレスの胸元を引きちぎった。


「……ひどい」


 睨み付けるとヒュプノイドはふんと鼻を鳴らし、今度はわたしの右の胸を鷲掴みにした。


「……ふむ、どうやら厄介な『兵隊』たちはまだ、目覚めていないようだ。本当ならもう少しいたぶってから連れて行くところだが……なにぶん、時間がないのでね」


 ヒュプノイドはポケットからペン型の注射器を取りだすと、わたしの首筋に押し当てた。


「エリート工作員以外で『人質姫』を拉致できた者はまだいない。ようやく私にもツキが回ってきたようだ」


 ヒュプノイドが下卑た笑いと共に薬液の射出ボタンに手をかけた、その時だった。突然、自転車のブレーキ音が響いたかと思うと、金属が切断される音が闇の中に響き渡った。


「なっ、なんだ?」


 一瞬、注意が逸れたヒュプノイドの股間を、わたしは膝で力任せに蹴り上げた。


「ぐあっ」


 身体を二つ折りにしたヒュプノイドの手から注射器を手刀で叩き落すと、わたしは顔を上げて音のした方に目をやった。わたしの自由を奪っていた鎖がだらりと垂れ下がり、真ん中で断ち切られた鎖の傍らには作業服を着た人影が大きな鋏を携えて立っていた。


「……あなたは」


「すみません、由麻さん。着替えをしていたら遅くなってしまった」


 自転車でやってきたのは何と、先ほど別れたばかりの刑部優馬だった。


 ごめんなさい、わたしは貴代由麻じゃないの――そう言おうと口を開いた瞬間、巨漢が咆哮し、鎖をぶら下げたまま優馬に襲い掛かった。


「――おっとと、危ないなあ」


 優馬は間延びした声と共に巨漢の一撃をかわすと、顔に似合わぬ俊敏な動きで巨漢の背後に回った。


「この……小僧、ちょこまかとっ」


 忌々しげに罵りながら向きを変え始めた巨漢に、わたしは「拉致するならこっちでしょ!」と叫んだ。巨漢が首を捻じ曲げ、肩越しにわたしの方を見た、その時だった。


「由麻さん、これを!」


 巨漢の股の間から、何かが勢いよく転がってきた。見るとそれは、わたしが受け取りを保留した例の『箱』だった。


「それをつけてください!あなたに『力』をもたらすはずです」


 わたしは戸惑いながら優馬が寄越した箱を拾って開け、古めかしい指輪を取りだした。


「小僧は後回しだ。まずはお前から黙らせてやる」


 巨漢が黄色い歯を剥き出して言い、わたしは半信半疑のまま思い切って指輪を填めた。


「……これは?」


 指輪を填めた瞬間、わたしの指に青白い火花が散った。放電能力が甦ったのだ。


「ゆくぞ小娘!」


 巨漢が猛々しい唸り声とともに拳を振り上げた瞬間、わたしは地面に垂れ下がった鎖の端を握った。


「暴力でしか人を黙らせられない人には、わたしがお仕置きしてあげるわ」


 わたしはそう言うと、握った手にありったけの電流を注ぎ込んだ。


「――ぐあああっ!」


 巨漢は全身を痙攣させると、膝から地面に崩れ落ちた。わたしはまだ火花が散っている指先を見つめながら、呆然としているヒュプノイドに近づいていった。


「よくも無防備な女の子を辱めてくれたわね。あなたにエリートを羨む資格なんてないわ」


 わたしは冷たく言い放つと、おもむろにリボンをほどいた。


「お家に帰っておさらいするのね。女の子を攫うのにも、それなりの礼儀がいるって事を」


 わたしは火花の散る手でリボンをしごくと、ふっと息を吹きかけた。リボンはたちまち紅蓮の炎に染まり、わたしは腰を抜かしてへたり込んだ男の尻を容赦なく打った。


「ぎゃああ、熱いいっ」


 火を消そうとあたりをはね回るヒュプノイドを尻目に、わたしは優馬の方に移動した。


「……助けてくれてありがとう。ごめんなさい。ご覧の通りわたし、令嬢なんかじゃないの」


 わたしが詫びると、優馬はにこにこ顔のまま「素敵でしたよ、勇敢なお姫様」と言った。


「この指輪……本当に不思議な力があるのね」


「ええ、僕の見立て通りでしょう。やっぱりこれはあなたの手元に置くべきです。……もう遅いし、今夜は僕が駅まで送りましょう」


 そう言うと、優馬は自転車の荷台を目で示した。


「えっ……自転車で?」


「光栄だなあ、お姫様と二人乗りなんて」


 作業服姿の王子にスコートされたわたしは、あなたは何者なの、という言葉を飲み下して荷台に乗り込んだ。


「さあ、出発しますぞ、姫」


 優馬はそう言うとぼろぼろのドレスを身に纏ったわたしを乗せ、ゆっくりと走りだした。


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