第5話 第三話 流浪する王子


「あっ、いけない、もうこんな時間。帰らなきゃ」


 ふと会話が途切れ、何気なく携帯を覗いたわたしは思わず声を上げた。


「……もう?まだ四時半じゃない。何か用事でもあるの?」


 学校帰りのフードコートでわたしに問いかけたのは、クラスメートの衣吹茉里名だった。


「用事じゃないわ。わたしの家、山奥なのよ。今から出ないと真っ暗になっちゃう」


 わたしが薄くなったドリンクを啜ると、茉里名は不思議そうに小首を傾げた。


「自転車で山道を登るの?パパに車まで迎えに来てもらえばいいじゃない」


 わたしは心の中で苦笑した。これが普通の女子高生の感覚なのだ。茉里名には、父が経営者だとしか言っていない。自家用車で迎えに来るイメージを持ったとしてもなんらおかしくはないのだ。


「駄目よ、うちのパパなんて。子供の頃から超スパルタ教育だったもん「甘えるな」の一言で突っ張ねられるに決まってるわ」


 わたしがさらりと答えると茉里名は「ふうん、お金持ちってそうなのか」と珍しいものでも見るようなまなざしを寄越した。


 実際、父に「迎えに来てくれ」などと言おうものなら即座に「どうした、両足を切断でもされたのか」と冷静な返しが来ることは確実だった。父にとって数キロの山道を自転車で登ることなど、トレーニングのうちにも入らないのだ。


「うちなんてお金持ちじゃないよ。学校だって公立だし」


 わたしは友人の思い込みを打ち消しながら、本当はもう一つ、とんでもない学校に在籍しているんだけどと言いたい気持ちにかられた。


「ねえ、これ噂なんだけど、桃華って運動部でもないのに実はすごく敏捷じゃない。こっそりハードなバイトでもしてるんじゃないかっていう子がいるのよ」


 いきなり身を乗り出され、わたしは一瞬、返答に窮した。もし彼女に、わたしの『副業』を告げたらどんな反応を見せるだろうか。


「あ、ばれた?……じつはね、秘密諜報部員のバイトをしてるんだ。悪者のアジトに潜入して、組織を壊滅させる仕事。だから鍛えてないと無事に生還できないの」


 わたしが声を潜めて言うと、茉里名は「大丈夫?」というように眉をひそめてみせた。


「そういうわけで、色々と忙しいのよ。ごめんね。……じゃあまた、学校で」


 わたしはフードコートの前で友人と別れると、ショッピングモールを出て駐輪場へと向かった。軽快だった足取りがふいに鈍ったのは、自転車を停めた一角に差し掛かった時だった。


 ――誰だ?

 

 わたしの視線が、自分の自転車の傍らで不審な動きをする人影を捉えたのだ。わたしは歩調を緩めると、人影に向かって慎重に近づいていった。やがて人影の動きがはっきりと見え、わたしはごく自然に足を止めた。


 ――妙だな。泥棒じゃない?


 わたしの自転車を首を傾げながら眺めまわしていたのは、若く背の高い男性だった。


 長い間の訓練で、わたしは人間の挙動に漂う悪意の匂いをほぼ正確に嗅ぎ取ることができる。だが、施錠された前輪を覗きこむ姿から読み取れるのは、当惑だけだった。


 何者だろう、訝りながら足を踏みだした瞬間、ふいに男性がこちらを向いた。次の瞬間、わたしは虚を突かれ、その場に棒立ちになった。


「……ああ、良かった。人が来た」


 男性なぜかわたしを見るなり目尻を下げ、ほっとしたような笑みを見せたのだった。


「あの……」


 わたしが訝しむように見返すと、男性は呆れた事に「変なんです、鍵が、どうしても開かないんです」と助けを求める言葉を投げかけてきた。


「開かないって……それ、わたしの自転車ですけど」


 わたしがそう指摘すると、男性は「えっ?」と頓狂な声を発し、その場で固まった。


「……だってこれ、僕の自転車とそっくりですよ?見てください、タイヤも、ハンドルも」


 いや、タイヤとハンドルは大体みんな似ているでしょう。そう言おうと口を開けかけた時、突然「ああっ、違うっ」という叫び声が響いた。


「見てください、この鍵。僕がつけたものと違う。一体、誰が僕の自転車に鍵なんか……」


 わたしは呆れ果て、思わず口を噤んだ。良く見ると男性は彫刻並みに整った顔立ちをしており、両眉さえ下げてていなければ撮影中のモデルかと思うような容姿の持ち主だった。


「あの、それはわたしの自転車で、鍵も私のものなんです。……わかります?」


 わたしが噛んで含めるように言うと、男性はぱちぱちと目を瞬いた後、再びまじまじと自転車全体をあらためた。


「……あああっ、本当だ。違う。これ、僕の自転車じゃないっ」


 男性は大げさに驚いてみせるとわたしの方を向き「すみません、僕の自転車、どこにいったかわかりますか?」と問いを投げかけてきた。


「さあ、そう言われても……そもそも、どのあたりに置いたんですか?」


「北駐車場の駐輪場、つまりここです」


 語気を強めてそう主張する男性に、わたしはすっと息を吸うとおもむろに口を開いた。


「……ここはお店の西側ですけど」


「えっ」


 男性は突然、憑き物が落ちたような顔になると、あたりを見回し「本当だ」と言った。


「北側に行けば多分、本物の自転車があると思いますよ」


「そ、そうですね。……いやあ、なんて聡明な女の子なんだ」


 男性はどこかとぼけた、しかし善人であることは疑いようのない表情でわたしを見ると、詫びの言葉もそこそこにその場から去っていった。


 ――わたしもまだまだね。あんな無害な人にアラームが反応するなんて。


  だがそれから数日後、わたしは自分の嗅覚が正しかったことをまざまざと思い知らされることになるのだった。

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