第5話 夢




 夢を見ていた。どこまでも、どこまでも続く暗闇の中を延々と歩く夢だった。その道のりには自分以外の人間は存在しない。そこには、なんの感情も生まれない。嬉しさや楽しさのように肯定的な感情はもちろん、悲しい、辛い、切ないといった否定的感情もだ。


 ——なにも感じないんだ。

 

 いわゆる「無」と呼ばれる状況の中をひたすら歩くだけの夢。目指す物なんてなにもない。ただ道があるから、真っ直ぐに伸びた暗い道をひたすら歩くだけなのだ。出口の見えないトンネルとも違う。あたりには風景が見て取れるのに、それらは灰色のフィルターがかっていて視界を不明瞭にするだけだった。


 自分は一人。

 誰もいない。

 薄暗い道をただ真っ直ぐに歩いていくだけ。

 なにも感じない。

 なにも覚えていない。

 

 自分は誰だったか?

 自分は何者だったのか?

 なぜここにいるのか?

 どこに向かっているのか?

 なにを感じているのか?

 なにも感じていないのか?


 ——わからない。全てが、わからない。


 自分と周囲との境界線がぼんやりとしていて、いつの間にか自分は、周囲に吸収されて、いなくなってしまうのではないかと思うのに、怖くはない。危惧もない。ただあるがまま、そうなるしかないのだと受け入れてしまうだけの夢なのだった。



***



 ぼんやりと目を開けると、夢の続きかと思うくらい辺りは薄暗い。古びた和室の天井を見上げて、じっと静かに状況を把握する。ここは見慣れた自分の部屋だ。しばらくの間、じっとしていると、襖がそっと開いた。廊下から橙色だいだいいろの光が洩れてきて、妙に眩しかった。


さとる? 起きた?」


 それはよく聞き馴染んだ声色——母親の声だった。ゆっくりと視線を向けると、彼女はエプロン姿で心配そうにそこに座っていた。


「ご飯食べる?」


「——何時?」


「もう夜の八時よ」


 店が閉店する時間だ。自分だっていい年だ。こんな遅くまで夫婦で働く両親は尊敬すべき人たちだと、大堀は常日頃から思っていた。だがしかし。だからといって、お弁当屋を継ごうとは思っていない。自分には自分のやり方で人を幸せにする仕事があるのではないかと思った。だから市役所職員を選んだのに——。


 ——市役所職員?


 その言葉にふと現実に引き戻された。その瞬間。辛い気持ち。悲しい気持ち。心がぎゅっと痛んだ。目の前が歪んだ。保住の顔。田口の顔。安齋の顔。そしてフロアにみっちりと入っている参加者の顔、顔、顔、顔、顔。


 それから——知田の顔。


 全てが歪んで、歪んで……見えた。


 絵具が水の上でぐるぐると渦を巻いて混ざり合っているみたい。最初は綺麗な色なのに、色々な色が混ざり合い過ぎて、結局はどす暗い灰色が出来上がる。まるでそれは、今の自分の気持ちみたいだと思った。大堀は口元を押さえて涙を流す。


「暁……」


「ご、ごめん。母さん。情けない。おれ。本当に情けない」


「あんたは情けなくなんかないよ。頑張ってきたじゃない」


 母親は慌てて部屋に入って来るなり、大堀のもう一方の手を握った。


「もう頑張らなくていいんだよ。無理するのはやめようよ。ね? もう頑張ったじゃない。仕事なんて、なんでもできるよ。こんなになってまでする仕事だとは思えないよ」


 ——頑張ってきたの? おれ、頑張った? 本当に? ああ……そうだ。


「頑張ったよね。——結構、頑張った……」


 大堀は瞼を瞑った。


 ——もう頑張らなくていいの? 本当? だって休みたいじゃない。もう疲れたんだ。ゆっくりとしたいんだ……。


「疲れているんだよ。ゆっくりしなさい。暁……」


 母親の声はまるで子守歌みたいに、大堀を眠りに誘う。躰も心も疲弊して、到底立ち直れない。大堀は再び暗い闇の夢に落ちていった。



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