第10話 実家



 茫然自失な大堀を公用車に乗せ、田口は彼の家に向かった。以前一度だけ、飲み会の帰り道に「ここ、おれの家」と教えてもらっていたからだ。


 大堀の家は駅前エリアの下町。昔ながらの弁当屋をしている。平日の日中でも人がいると踏んだ。案の定、昼の十一時過ぎだ。店先には、弁当を注文して待っている客が二、三人いた。


 道路わきに車を停車させ、顔を出すと、三角巾にエプロン姿の女性が「いらっしゃい」と笑みを見せた。その笑顔は大堀そっくりだ。彼女と大堀が親子であるということは一目瞭然だった。


 下町とは言え、周囲にはオフィスも多い。混雑するのはきっと十二時を過ぎてからなのだろう。


 ジュウジュウと油の弾ける音を耳にしながら、田口は頭を下げた。


「いつもお世話になっております。梅沢市役所でさとるくんと一緒に働いている田口と申します」


「あら。なんでしょう。暁がいつもお世話になっております」


 彼女はにこっと笑みを見せたが、この時間に息子の同僚が尋ねてくるだなんて、おかしいと気が付いているのだ。幾分不安が隠しきれていなかった。母親とは勘は鋭いものだ。我が子に何事かがあったということを察知しているようだった。


「申し訳ありません。あの。暁くんが、体調を崩しまして。とても仕事ができる状況ではありませんでしたので、とりあえずお連れしたんです」


「あら、なんでしょう」


 彼女は最初に発した言葉と同じ言葉をつぶやいた。それから、自然と外に停車している公用車に視線を向けた。田口も釣られてそちらを見た。大堀は、もう一人で歩くことができないくらい、顔色も悪く、震えていた。


「病院へ……とも思ったのですが。どこが具合が悪いのかもよくわからなくて……。本人が、ともかく家に帰りたいと言っておりましたので、お連れしたのです」


 きっと精神的なものであると思った。知田になにか言われたのだ。もう少し早く駆け付けることができたら、阻止することができたのかもしれなかったのに——そう思うと、後悔の念しかない。


 車の中で大堀は、何度も譫言うわごとのように「帰りたい」と呟いていた。ここは彼の言う通りにしたほうがいいと、こうして、彼を自宅に連れ帰ったのだところだったのだ。


 母親は顔色を悪くし、「結構なんです。それで大丈夫です」と言った。


「え?」


「こういうことは、初めてではないんです。ここのところ、楽しく仕事に行けているかと思っていたんですけど。——あなたは暁のことを心配してくれているんでしょう? 田口さんって名前、暁から聞いています」


 彼女は暗い顔色のまま、ため息を吐いた。


「あの子から聞いているかどうかわかりませんけど。暁、職場でいじめられていたみたいなんです。あの頃は、本当に仕事に行くのも辛そうで、いっそ辞めてしまえばいいと家族で随分と説得したんです。ですが、あの子。市役所職員は夢だったから、なんて言って。無理しちゃって。今日みたいな感じで何度も帰ってきました」


 田口は、大堀が嫌がらせをされていた話は聞いていた。しかし、ここまで家族にも心配をかけるほどひどかったとは、見積もりが甘かったと思った。


「親としては、本当に辛いんですよ。いい年した息子がね。あんな我が子を見るのは切ないんです」


「お母さん」


「ここ二年ばかりは落ち着いていて、いつもの暁だったから、安心していたんですけど。またですか。——一体、市役所というところは、どんなにひどい職場なんでしょうか。私たちの税金で生活されている人たちですよね? 暁だって梅沢市民の一人なんですよ。なんで、こんな仕打ちをされなくてはいけないんでしょうか?」 


 もちろん、彼女は田口を責めているのではない。ただ、憤りをぶつける相手もいないのだ。目の前にいる田口に言いたくもなる——ということなのだろう。案の定、彼女は、はっと我に返ってから「ごめんなさい」と頭を下げた。


「あなたのせいじゃないでしょうに。申し訳ありません。つい——」


 しかし田口は頭を下げた。


「申し訳ありませんでした。おれたちがついていながら。息子さんにこんな思いをさせてしまったこと。同僚失格です」


「まあまあ。田口さんのせいでもないでしょう?」


「おれの見積もり不足です。防げるはずだったのかも知れない。もっと注意深く慎重に対応してれば、こんなことにはならなかったのかも知れない。本当に情けない話です。申し訳ありませんでした」


 大堀の母親は、困惑していた。待っている客が、不思議そうに田口を見ているからだ。


「おい。営業の邪魔だぞ」


 厨房でフライパンを振るっていた大堀の父親らしき男が口を開いた。


「暁はしばらく休ませる。悪いけど、おれたちはもう、こんな思いはしたくねえんだよ。連れてきてもらったことに礼はするがよ。あんたたちは嫌いだ」


 彼はそう、つっけんどんに言い放つと、母親に言った。


「おい。突っ立ってないで。早く暁を休ませろ」


「わかっているよ」


 母親は田口に済まなそうな視線を向けるが、これは当然のことであると受け止めた。田口は父親に頭を下げると、車で小さくなっている大堀にそっと手を貸して自宅に連れて行った。


「また来ます」


 母親と奥に姿を消した大堀を見送って、田口は頭を下げた。しかし、大堀の父親はぶっきらぼうに答えた。


「しばらくは顔、見せるなよ。関係のないあんたのことまで殴りたくなるからよ」


 ぴしゃりと言われてしまうと、言い返すこともできない。田口は再び頭を下げてから公用車に乗り込んだ。



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