第9話 深い淵の底
——気持ちが悪かった。
思ったようにはできなかった。だが昨日のような失態はしていないと思う——と大堀は思った。一回目の説明会が終わったのだ。洋式の個室トイレに籠って、大堀は口元を押さえて、ぶるぶると震える躰をかき抱いた。
——最悪だ。なんでこんな時に……。
『このクズが』
『仕事する気ある? 大堀ちゃん~。
『お前さ。生きている価値あんの?』
耳にこびりついて離れない悪口、怒声……。眩暈がして吐き気がした。
「おれがなにしたって言うんだよ……」
涙が零れて、嗚咽が洩れそうになったその時。
『大丈夫だ。おれがいる』
艶やかな笑みを見せる保住の顔が脳裏に浮かんだ。
「室長……」
彼に迷惑はかけられない。こんなに自分を信頼してくれているのだ。田口も安齋もそうだ。みんな仲間だと言って、自分を支えてくれている。
——こんなことしていられないんだ。期待に応えるんだ。
腕時計は十時四十五分。二回目の説明会が始まる。
——戻らないと。戻らないと。
吐き気と眩暈を堪えて、トイレから足を踏み出す。踏ん張りどころだ。自分が乗り越えなくてはいけないことだということは頭では理解しているのに、心が追いつかなかった。
——でも、怖いよ……。
フロアの壁に寄りかかってまっすぐに自分を見据えている知田の視線が怖いのだ。胸元を押さえながら、やっとの思いで廊下に出た瞬間。一気に腕を引っ張られてトイレに逆戻りさせられた。
「おおい。
誰もいない男子トレイの、空色のタイル壁に躰を押し付けられる。身動きが取れずに視線を上げると、そこには知田がいた。
逃れようと思って、壁に添えられている知田の両腕が邪魔で敵わない。それはまるで、大堀の心を閉じ込めてしまうかのような監獄だ。
「昨日の打ち合わせも最悪だったけどさあ。今日はもっと、うだうだでひでぇもんだな。ねえ。そんなんで先鋭部隊の一翼を担えるわけ?」
「——知田、さん」
「へへ。お前さ。相変わらずいじめがいのあるやつだよなあ。こうしてちょっと突くと、ぶるぶるしちゃってさ。面白い」
知田は大堀の耳元に口を寄せた。
「なあ。推進室の奴らにばらしてやろうか? お前っていじめられるような嫌な人間だってさ」
「——っ」
「ほおら。返事はどうしたの? 暁ちゃん。前はおかしかったよねえ。お前、可愛い顔してっけど、性格は悪いんだよね~って、みんなにちょっと吹き込んだらさ、乗ってきちゃって。便乗しちゃったじゃん? いじめられる奴ってみんなのために必要なんだよ。他のみんなが団結できるんだから。自分可愛い奴らばっかじゃん。公務員なんて。結局は自分が大事なんだよ。いじめる側に回ることが、いじめられないための最高の予防策だからな。昨日の説明じゃあ、保住室長も落胆してるんじゃない? お前なんか拾っちゃって貧乏くじひいちゃったよねって、きっと後悔していると思うよ」
大堀の脳裏に、財務時代の嫌な記憶が鮮明に浮かぶ。一度は持ち直した気持ちは、ガタガタと崩れ落ちそうになった。
「早くヘマして降りろよ。このクズが——。安心しろ。市制100周年記念事業はおれが引き継いでやるからさ」
「——え?」
「あれ? 聞いてないの? 人事課でさ。メンバー見直しの話が持ち上がっているんだよ。この一年間はテスト期間だったんじゃない? 不相応な奴は早めに外して、入れ替えするんだって。その第一候補が、暁ちゃんじゃん」
——そんなこと、室長はなにも言っていなかった。
「あれ? 知らないって顔しているよ。そんな大事な話もしてもらえないんだ。はあ、よっぽど信頼ないんじゃない。可哀そうだと思ってお前には話していないんだね。保住室長は。今日、頑張ってもなんの意味もないのにね。こんな具合悪くなってまで、頑張っちゃってさ。本当に健気で可愛らしいねえ。暁ちゃん」
「だ、だって。室長はそんなことは」
「そりゃ、室長も励ますだろう? お前の最後の花道だもんな」
大堀の目の前が一気に暗闇に包まれた。
「可哀そうにな。お前、ゴミ係か、道路係……技能職でもあるまいし。そんなところに回されたら終わりだな——。あ、そうそう。もっとひでぇところあったな。
大堀は深い闇に飲み込まれそうになった。足元がぽっかりとあいて、落下しそうな感覚——。しかし、ふと伸びてきた大きな手に掴まれてはったとした。
「大堀になにをしている」
大堀は目の前が霞んでよく見えなかった。しかし、そこには田口がいたのだ。
「田口——」
「えっと。田口さんだっけ? 大堀君。具合悪そうでねえ。ふらふらしているから支えてあげたんですよ」
田口はぎっと知田をにらみつけた。それから、大堀は腕を引かれて田口のほうに引き寄せられた。
「大丈夫か。大堀」
——田口……。
もう口が動かない。唇がぶるぶると震えて声が出なかった。
「大堀。大堀?」
「だめ。田口。おれ、やらなくちゃ。説明を」
大堀はもう訳がわからなくなってしまった。深い闇に落ち込んで、身動きが取れない。田口のぬくもりだけがなんとなく暖かく感じられたが、それももう時間の問題だ。
心が、なにも感じられなかった。
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