第4話 新妻



「大堀、張り切っていますね」


 エプロン姿で夕飯の支度をしていた田口は、キッチンから、ソファに座っている保住に声をかける。


「そうだな」


 彼は企画書を眺めているらしい。空返事の様子を見ると、田口の言葉の内容は理解できていないものだと思われた。


「——聞いていませんね」


「そうだな」


 もう笑うしかない。寝ても覚めても「仕事」のことばかりだ。仕事が趣味だと豪語するだけのことはある。


 梅沢市の二月はともかく寒い。一年を通して、一番寒い時期かも知れない。


「保住さん。できましたよ」


「そうだな」


「保住さん」


 そっと後ろに回り込んで、肩を引き寄せた。すると、そこで初めて気が付いたのだろう。彼ははったとして顔を上げた。


「銀太」


「すみません。お仕事中ですけど、夕飯食べませんか」


「すまないな」


 彼は目を擦りながら、書類をそこに置くと、腰を上げた。


「眠そうですね」


「寒いと眠くなる」


「冬眠ってやつですか」


「おれはクマか?」


「クマって感じではないですね。炬燵で丸くなっている猫ですか」


「おい」


 食卓に腰を下ろしてから、ふと彼は田口を見た。


「お前はおれを苗字で呼ぶだろう? それっておかしくないか」


「え?」


 おでんの鍋を突こうと、菜箸を持っていた田口は首を傾げた。


「なんです。急に」


「お前は名前で呼べという。だから『銀太』と呼んでいるが、なぜお前はおれを名前で呼ばないのだ?」


「だって……保住さんは保住さんじゃないですか」


「そうだろうか」


「そうですよ。じゃあ、なんとお呼びすればいいのですか? 尚貴なおたかさん、ですか」


 田口がそう言い放つと、保住は「ぶ」と吹き出した。


「な、笑わないでくださいよ。保住さんが所望したんですよ?」


「いや、待て待て」


 彼はいつまでもおかしそうに笑ってる。なんだかおもしろくなかった。


「——お、お前。新妻みたいだな」


「は、はあ!?」


 田口は途端に顔が熱くなる。


 ——確かに。そうかも知れない。


「だ、だって。保住さんを呼び捨てにはできません! 『くん』付も変ですし。『さん』しかないじゃないですか!」


「すまなかった。おれが変な話をしたのが悪かった。もう言わない。いい。今まで通りでいいぞ」


 なんだか揶揄われているような気がするが、保住が笑っている姿は、田口をも幸せな気持ちにしてくれる。来週から本格的に始動する事業が控えているが、束の間の安寧だと思った。




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