第19話 ありがとう。
翌日。田口は無事に職場復帰をした。待っていたのは安齋や大堀だけではなかったようだ。
さっそく観光課長の佐々川や、吉岡、澤井に天沼も顔を見せ「しっかり休んでいた分の仕事をしろ」と言っていった。だが、言葉とは裏腹に、みなが一様に田口の復帰を喜んでいる様子だった。
明日からは師走。安田市長の新たな市政のスタートだ。庁内は頭が変わらなかったことで、安堵の雰囲気なのか、和やかに見えた。
緑地課長との打ち合わせを終え、廊下を歩いていると、声をかけられた。驚いて振り返ると、そこには私設秘書の槇が佇んでいた。
「時間はあるか。保住」
「ええ、いいですよ」
槇は食堂側のラウンジの席に座る。保住もそれに倣って腰を下ろした。昼食時間とはかけ離れているそこは、人がまばらで静かなものだった。
「選挙戦でバタバタしていて。先日の件。きちんと挨拶ができなかった。先日は、野原——いや。
槇はテーブルに両手をついて深々と
「いや。そんなことは」
「今回は田口くんにすっかり世話になった。自分も療養中だというのに、病院スタッフとともに、随分と探し回ってくれたそうだな。本当に、なんと言ったらいいのか。感謝しきれないのだ」
槇は言葉にできないという気持ちであふれているようだ。これは素直に受け取っておいたほうがいいのだろうと思った。
「今回の件は貸しにしておきます。おれたちが困った際にはお願いいたしますね」
可愛げのない言い方だと思ったが、これくらい言わないと槇は納得しないだろうと思った。
案の定、槇は逆にほっとしたように、表情を緩めた。
「本当に恩に着る」
「それよりも野原課長はいかがですか。あの——」
「食欲は戻った。いつも通りの生活が送れているのだが。やはり思わしくないのだ。精神科のカウンセリングも受けさせているのだが。そもそもが自分の内面について知覚しない男だ。担当者もお手上げのようだ」
「それはなかなか心配な状況ですね」
「時間がかかるのだろうな。仕方がないな」
「槇さんもお辛いでしょうね」
「おれはどうなったって構わないんだ。ただ、なんとか雪がまた、元の通りになってくれるといいのだが……。保住」
「はい?」
槇は「いや、いい」と首を振った。
「お前は田口銀太が大事だろう? 絶対に手放すなよ。いいな」
「——槇さんに言われなくてもそうしますよ」
——一体、なんの話だ?
保住にもう一度、頭を下げた槇は腰を上げた。
「田口くんによろしく伝えてくれ。——じゃあ」
去っていく槇の後ろ姿は、どことなしか小さく見える。安田が再選したというのに、どうしたのだろうか。
人の心配をしている場合ではないのだが、気がかりで首を傾げた。しかし、人の心中をいくら推し量っても、それは理解しえないことでもある。考えるだけ無駄かと、思い直し気持ちを入れ替える。会議で使用した書類を抱え直し、廊下を歩き出すと、目の前から松葉杖姿の田口が歩いてくる。
「どうした」
——嬉しいくせに。
田口がいることで、こんなにも心が躍るのに、素っ気ない言葉しか出ない自分に嫌気が差した。しかし、そんな保住の心中を察してくれるのか。田口は笑顔を見せた。
「梅沢印刷の鈴木さんから、至急の要件でお電話が入っていたので、やきもきして待っていたところですよ」
「そうか。戻ったら折り返そう。——それよりもどうだ。仕事は。痛むか」
「久しぶりの職場ですからね。今までとは自由度が違い過ぎて戸惑います。しかし、そんなことはすぐに慣れると思います。平気ですよ」
「そうか」
庁舎内を彼と肩を並べて歩くには久しぶりだ。彼が隣にいてくれるだけで、保住の心は穏やかになる。こうして一緒の時間を共有できるということが、なに物にも代えがたい幸せなのだから——。
保住は、そっと田口の袖を握った。
「保住さん?」
「——いや。よかった。ありがとう。戻ってきてくれて」
「え! どうしたんですか? えっと……嬉しいんですけど」
目元を赤くする田口の横顔に、はったとしてから、保住は彼の背中を叩く。
「ほら、さっさと仕事」
先に歩き出すと、後ろから「保住さん、待ってくださいよ」と情けない声が響く。耳まで熱く感じられた。
——恥ずかしい!
しかし、口元は緩むばかりだ。変な奴だと思われないか、気を引き締めて、保住は自席に戻った。
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