第18話 家に帰ろう。



 まだまだ固定されている左腕のおかげで、相当な時間をかけてまとめた荷物を眺める。こんな状況では、退院しても一人でまともに暮らしが送れるとは到底思えない。保住に迷惑をかけることは目に見えていた。しかしそれでも退院したいと思ってしまう。


 野原は二日前に退院していった。栄養不足で自分よりも、もっと早く退院すると思っていたが、結局は同じような入院期間になってしまった。


 空いているベッドを眺めて、彼の退院時のことを思い出した。

 あの日は、槇が迎えにやってきた。副院長だという野原の母親もやってきて、槇に頭を下げていたのが、印象的だった。四十も近いというのに、母親は母親なのだ。自分も同じだと思った。本日の退院には是非立ち会うと息巻いていた母親をなだめすかして、勘弁してもらった。彼女が来るだけで大騒ぎだ。それに、今の家族は——。


「おい、手続きをしてきたぞ」


 カーテンが開き、保住が顔を出した。

 忙しい最中であるというのに、今日は午後から休みを取ってくれた保住だ。田口は自然に笑みを浮かべていることに気が付いていない。


「すみません。支払いまで」


「なにをいう。お前の夏のボーナスだ。有意義に使えてよかっただろう?」


「そんな意地悪を言わないでくださいよ」


 保住はまとまっている荷物を持ち上げてから!「どれ、いくぞ」と声を上げた。


「すみません。荷物を持たせて」


「気に病むな。これくらいはおれでも持てるのだぞ!」


 保住は偉そうに言い切った。そんな彼が嬉しい。そして、久しぶりの我が家だ。こんな嬉しいことはなかった。


「久しぶりです。何か月振りかという話しですね」


「お前の誕生日以来だもんな。先日、安齋の家にあったお前の私物は返してもらっている。本当にすまなかった。おれのミスだ。こんなに時間がかかってしまうような事態になって」


「そんなことはありませんよ。結果的に怪我で済みました。もしかしたら、ここにいなかったかも知れません。それよりもこれですよ」


 田口は手を足を見る。


「帰っても、あなたに多大なるご迷惑をおかけすることになるかと思います。一人ではなにもできません」


「そんなもの。気に病むな。躰くらい、洗ってやる」


 詰め所に挨拶を済ませてから、一階に降りる。外に出るのも久しぶりだった。


「安田市長、踏ん張りましたね」


「澤井が根回しをしたのだ。当然の結果だろう」


「本当にあの人は怖いですね」


 田口の言葉にふと保住は、なにかを言いかけて口と閉ざした。いつもだったら、ここで彼に対する悪口が出てくるはずだが——。少し惑うように視線を彷徨わせた保住は、田口に視線を戻す。その目は真剣だった。


「銀太。おれは……おれも、


「保住さん……」


「澤井は確かにベストな解決方法を見せてくれた。だが、それでも。おれは納得ができないのだ。なにかを守るためには力が必要だ。そのためには、それ相応の地位に上り詰める。そんなことは子供でもわかっていることだ。だがしかし、おれはやはり、そうはなりたくないのだ。おれは、おれの好きなやり方でこの道を歩んでいきたい」


 保住がなにについて悩んでいるのか、田口には理解できた。


「保住さんは、澤井さんみたいにはなりませんよ」


「銀太」


「だって、あなたはあなただ。澤井さんは自分のやり方を見せているだけでしょう? あなたはそれを真似する必要はないんだ」


「しかし、今回の件。澤井の解決策以上に最良のものはない。それもわかっているのだ。だが——」


「保住さん」


 珍しく困惑している彼の腕を掴まえると、はっとしたように保住は田口を見た。


「今はいいじゃないですか。おれたちはまだ若い。これから経験を積んでいくんですよ。保住さんが副市長になった時。澤井さん以上の方策を見つけるのではないかと思います。これからですよ。おれたちは」


 ——この人は優しいんだ。きっと、これから先も、こうして傷ついていくに違いない。


 田口はそっと保住を引き寄せる。両手が自由でないため、彼を抱きしめることが出来ないが、それでもこうして、彼の熱や匂いを感じるだけで幸せだった。


「おれはずっとそばにいます。そしてあなたを支えたい。足手まといにならないように、おれだって成長していきます。だから一人で背負うのはやめてください」


 保住は「ふふ」と笑うと、「そうだな」と大きな声で言った。


「そうだった! お前はおれと一緒に茨の道を歩んでくれると言っていたな。銀太。ありがとう」


「いいえ。連れて行ってもらえるのは嬉しいです」


 二人はお互いの存在の意義を確かめ合い、心を新たにしていた。




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