第16話 代償



 あれから。出馬表明を行なった安田に続いて、他の立候補者も次々に出馬表明を行なった。市民の声として、対抗馬を推す報道が連日のように囁かれたが、それも一時のことだった。投票日が近づくにつれ、マスコミもいつしか、安田優勢の報道に切り替わった。

 誰かが情報統制でもかけているのではないかと思うくらい、ひっくり返された形だ。


 こうなると選挙選には興味がない。シナリオ通り進む選挙選なんて、建前である。

 澤井がどこまで関与しているかの証拠はない。彼の影がチラついていても確信がないのだ。


 全ては澤井の思惑通り。彼の目指す最終的な目標に、この選挙選がどう関わるのか。今回の彼の振る舞いを見れば、大変重要な局面であったことは理解できた。


 安田が再選すれば、ここから四年は安田の時代が続く。澤井がなにかをしでかすとしたら、この四年……いや、四年後の次期市長選。


「まさか、ね」


 保住は一連の今回の騒動に想いを馳せながら、通い慣れた廊下を歩いて行く。

 詰所に顔を出し、スタッフに挨拶をしてから、いつもの病室に顔を出した。


「お約束の肉じゃがですよ」


 手提げの白いビニール袋を差し出すと、野原はベッドの上に座って本を読んでいるところだった。目の前のテーブルには書籍が何冊も積み上げられている。


「保住」


 彼は嬉しそうに眼を輝かせた。


「早く退院できるといいですね」


 向かい側のベッドから、田口もそう声をかけた。


「食欲はいかがですか」


「大丈夫。病院の食事も美味しくなった」


「美味しくなったって——」


 田口は苦笑した。


「あんなの、おれだって食べられませんよ」


 横沢は彼が体調を崩せばここに入院することを知っていた。それを踏まえて、加藤と男女の関係になり、彼女を仲間に引き入れていたらしい。いつその機会が巡って来るともわからないのに、気の長い話だと思った。

 しかし、選挙戦前には必ずそうなるという読みがあったのだ。それだけ、彼は槇と野原の関係性を熟知していたということだ。


 あとから聞いた話だと、横沢は中学時代に、槇との喧嘩騒動を起こして転校しているらしかった。その頃から、槇に対しての憎悪みたいなものがくすぶっていたのかも知れない。しかしそれに巻き込まれた野原は、運が悪かったとしか言いようがなかった。


 加藤は野原の担当者となり、彼の食欲を削ぐように、食事に細工をしていたのだった。いくら野原がそれらについて訴えても「味覚障害ですよ」とあしらっていたようだ。


 あの日。田口がリハビリに行くのを待ち、彼を「検査だ」と言い含めて、車いすに乗せたそうだ。野原を監禁するという目的があることを自分は知らなかったと言い張っていたようだが、感染症病棟に入れた時点で、それは予測が付くことだ。

 だがしかし、この事件自体を公にしないということが決まった時点で、彼女を法的に裁くことはできない。

 加藤は病院側の処分として、懲戒免職にはなった後、実家に帰ると言って姿を消したと聞いた。


 横沢はさすがに部長の座は降りたようだが、農家業と併せて、農協での活動を続けていると聞いている。


「今回の件。本当によかったのですか。おれは腑に落ちないのですが」


 肉じゃがを黙々と食べている野原は、白緑びゃくろくの瞳を瞬かせた。


「選挙が無事に終わればいい。問題はない」


「でも——」


 手を止めた野原は「ふふ」と笑った。


「保住はおれのこと心配?」


「そりゃ心配ですよ。横沢に乱暴なことをされたんじゃ。怖い思いしたのではないですか」


「ずっと目隠しされていて、犯人が横沢だって気が付かなかった。横沢は手荒い真似はしなかったけど——。どうだろう」


 床に落ちそうになっている毛布を掴み上げて、そっとベッドに戻す。ふと触れ合いそうになる手の感触に、野原は過剰なほど躰を硬くした。


「すみません」


「——いや。いい。すまない。——あれから、怖いんだ」


「怖い?」


「人に触れられるのは怖い。暗い中で、横沢に触れられた感触が残っている。だから怖い」


「課長」


 ——全然平気ではないのだろうな。


 野原という男は自分の感情に疎い。それに加えて、自分の中で起きている事象を理解するのにも疎いのだ。


 ——心的外傷? 急性ストレス障害という症状ではないのだろうか。


 人間は衝撃的な経験をすると、後遺症が残ると聞いている。野原はそう自覚していないのだろうが、ここから、辛い思いを抱えて過ごすことになるのかも知れないのだ。


 ——澤井が得たものの代償は、野原課長が引き受けなくてはいけないのか。理不尽だな。


 ふとそんなことを思うが、感傷に浸っても仕方がないことだ。これは野原の問題だ。そう思い直し、保住は声色を明るくした。


「そろそろ料理。ちゃんとしましょうか」


実篤さねあつがしてくれるって。今度はちゃんとするって」


「槇さんが? そんな暇ないでしょう。とうとう市長選本番ですね」


 病院の外では選挙カーの鶯嬢の声が響いている。最終日であるからか、アナウンスの女性の声にも力がこもっている。


「退院決まったんですか」


「来週にしてもらった」


「よかったですね」


「うん」


 にこっと微笑む野原は、いつもと変わりなく見えた。選挙戦に心配はないということなのだろう。災い転じて福となす。安田の当選は確実であるということだった。




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