第13章 市長選クライシス

第1話 救いと狂気



 市長選の告示まで日数が迫ってきた。市役所職員は公務員法によって選挙活動をすることは禁じられている。だがしかし、なにもしないわけではないのだ。自分たちの仕事をし易くしたいという思いは当然にあるものだ。——ただ傍観しているわけではないということなのだ。

 特に上層部ともなると、暗躍している者が多いということも認知できた。

 

 今回の市長選の注目は、現職の安田が立候補をするのかどうかということだ。安田の支持率は低め安定中だ。落選は確実だと囁く者も多い。そのため、甥で私設秘書である槇が地盤を引き継いで立つのではないかという見方も広まっているところだ。


 一方で、対抗馬として脚光を浴びている男がいた。環境省を早期に退職し、今回、立候補をすると噂されている瀬野という男だ。彼はそもそもが梅沢出身であり、地元愛を全面に押し出して、国とのパイプを振りかざして乗り込んでくるのだ。

 安田の一番苦手分野である第一次産業に強い男。これはかなり安田陣営は不利としかいいようがなかった。


 そんな風潮に、市役所内部は不穏な空気が流れている。本音を言えば、安田の続投、もしくは、彼の流れを汲む初当選が理想だ。しかし、市民目線で言えば、安田はマンネリの古老市長だ。そろそろ新しい風が欲しいところ。


 あちらこちらで市長選の噂を交わす職員たちの落ち着きのなさに、幾分かイラつきながら保住は書類の精査を進めていた。


 ——関係ないとも言い切れない状況だよな。


 先日の田口の事件は、結局はよくわからずに幕を下ろした。だが、なんの意味もない事件だったとは思えない。なにか大きな力が働いているようで、腑に落ちないのであった。


 そんなことを考えていると、大堀が「室長」と言った。保住が顔を上げると、カウンターには人事課の根津がいた。そして、その後ろにはもう一人の男が立っている。


 ——見たことがないな。


 保住は目を細めてから、腰を上げた。


「根津さん」


「ご無沙汰しております。その節は」


「こちらこそ」


 そんな挨拶を交わした後、根津は後ろの男を紹介した。


「保住室長。うちの課長の久留飛くるびです」


 ——この男が。


 保住は久留飛を、興味を持って眺めた。見た目は温和そうな雰囲気だ。お腹が妙に出ているのはアルコール腹と呼ばれるものに見える。根津よりも小柄。保住と同じくらいの身長だろうか。目が細く、にこにこと笑っているような顔つきだった。


「はじめまして。推進室長の保住です」


「いやあ、久留飛です。この度は大変でした」


 海老茶色のスーツは、彼を年齢よりも上に見せる。変わった男だと思った。


「いやいや。人事課には多大なるご迷惑をおかけしましたね。——ところで、今日は一体、どういうご用向きでしょうか。わざわざ課長がお見えになるとはね」


「いえ。ご挨拶が済んでいませんでしたからね。今日は根津にくっついてきただけですヨ」


 ——クソ忙しい人事課長が遊ぶ時間なんてあるはずなかろう。


 保住は笑顔を浮かべたまま、根津を見た。彼は軽く頷くと口を開いた。


「田口さんの書類をお届けにきたのです。それと、彼はしばらくかかるとお聞きしました。職員の補充をいたしましょうか。それでなくとも忙しい部署です」


 安斎や大堀が手を止めるのがわかる。猫の手も借りたいくらいに忙しいのだ。——しかし。


「いや。結構ですね。田口はすぐに復帰するでしょう。補充は無用です」


「しかし。保住室長。申し訳ありませんが、現在の推進室の勤務状況を確認させてもらう限り、余裕があるようには思えませんよ」


 根津は不満そうに声を上げたが、保住は首を横に振った。


「人が増えたところで忙しさに変わりはありません。田口がいた時であってもこんな調子だ。どこでも人が欲しいくらい忙しい中で、うちばかりに人員を割いてもらうわけにはいきませんよ。ご配慮、ありがとうございます。久留飛課長」


 根津が切り出したことだが、提案しているのは彼だということは見え見えだった。保住は、久留飛を見つめると、彼は「ふふ」と笑った。


「根津。親切の押し売りはこのくらいにしておいたほうがいいみたいだよ。これ以上押したら、嫌われちゃうネ」


「親切の押し売りだなんて——」


「いいじゃないか。保住くんがいらないって言うんだから」


「申し訳ありません。気遣いは嬉しいのですが、困っていないものは困っていないのです」


 保住の返答に根津は「出過ぎた真似でした」と頭を下げた。


「いや、嬉しい。ありがとうございます」


「いやいや。それにしても、本当に今回は大変なことだったね。そうだ。松岡の件なんだけれどもネ」


 久留飛は、さも思いついたかのように声色を変えた。


「あの子ね。南の丘病院に入院することになりました」


「ずっと——?」


 彼の言葉の意味には違和感がある。保住は言葉を止めた。


 ——このご時世。精神科に半永久的に世話になることはないと聞いているが。


「いや、松岡はね。とっても優秀な人材でした。それが、こころざしなかばでリタイアすることになるなんて、本当に遺憾なんですよ。そんな大事おおごとを起こしたほどでもないでしょう? ライバル職員に嫌がらせをしている職員は、そこいらにゴロゴロと転がっているのだから——」


 ——ちょっとした、だと?


 保住は思い切り、不機嫌そうな表情を見せてやる。しかし、久留飛はお構いなしの様相で、飄々ひょうひょうとした口調で続けた。


「しかしまあ、彼は薄汚いこの世界から解き放たれたんです。人間、一番の苦痛は生きることだヨ。病院で心穏やかに過ごす。世俗のしがらみがない世界は最高だ。あの環境は、きっと松岡を救ってくれることだろうと信じているのです」


 保住は嫌悪感を持った。


 ——なにが救いだ。ただ生かされるだけの世界だなんて、おれはごめんだ。


「神は試練を与える。人は悩み苦しみながら死を待つばかりだ。彼には安らかなるときが訪れたのだ。なんとも幸せなことだろうと思いませんか?」


 松岡の処遇について、笑顔で話す彼は、心なしか輝いて見える。彼は、松岡の人生は幸福であると信じて疑わないのだろうということが理解できたと同時に、激しい嫌悪感に襲われた。


 ——この男。狂っている。


「キミたちも人生、足を踏み外さないように。人間は些細なことで、堕落するものです。ねえ? 大堀くん」


 大堀は、自分の名前が出たのではったとして顔を上げた。




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