第2話 離婚しました。



知田ちだくんネ。キミの先輩だったね。キミが輝かしいこの部署で、立派にお勤めが出来るか大層、心を痛めていましたヨ。


 大堀は一気に顔色を悪くした。知田とは、大堀を虐め、陥れた男だ。久留飛くるびはわざと彼の名を出しているのだということが見て取れる。


「それから、安齋くん。キミは職務規定違反が多いみたいだね。警備員と懇意にするのはいいことだけれど、見過ごせない域にならないように気を付けたまえ。ここは星音堂せいおんどうとは違っているからね」


 安齋も閉口していた。黙っている推進室職員の様子に満足したのか。久留飛は余計に目を細めた。


「じゃあね。お忙しいところ、お邪魔しました」


 ニコニコ笑顔の彼と廊下に姿を消す。久留飛は、圧力をかけに遊びに来たのだろうな、と保住は思った。大堀や安齋が突かれて困ることを、敢えて口にするのだ。


 ——嫌な奴だ。いや、そんなレベルではない。澤井が警戒するわけだ。


 保住は二人を見送ってから、気を取り直して、安齋と大堀を振り返った。


「すまないな。おれの勝手で増員を断ってしまった」


 大堀は頬杖を突いたまま、苦笑した。「知田」の件を口にされて、少々動揺している様子だが、保住の笑顔を見て、気持ちを切り替えたらしい。いつもの表情に戻る。


「いいですよ。そんなの。今さら新しい人が来ても仕事を教えるのも面倒ですし。ねえ、安齋」


「田口がいても、いなくても忙しいのに変わりがない——というのは本当のことです。問題ありません」


 安斎は眼鏡をずり上げて、口元を緩めた。


「すまないな。出来た部下で助かる」


 保住は目を閉じる。


 ——銀太がいない間に他の職員がここに座っていたら、きっとまた。あいつは傷つくに違いない。もう少しで戻って来るのだろう? おれたちはお前の席を空けて待っていたい。


「早く帰ってこいよ。銀太」


 保住は主の不在になっているデスクを眺めてから、自分の席に腰を下ろした。



***



 澤井への定期報告の日だった。滞る業務を上司に報告することほど憂うつなものはない。しかも相手はあの澤井だ。保住は書類を抱えて、重い足取りで副市長室に顔を出した。

 しかし中には珍しく先客がいた。市長の私設秘書である槇だ。槇とはそう顔を合わせる間柄ではない。なんだか久しい気持ちになりながら、「お取込み中ですね」と声をかけた。


「構わない。今終わったところだ」


 ——槇と澤井か。


 この二人が一緒にいる姿を見るのは初めてかも知れない。少々違和感を覚えて、保住は、眉間に皺を寄せた。


「そんな怖い顔をするなよ。保住。美人が台無しだろう?」


 槇はふざけたように冗談を言う。市長選が近いというのに、今ここに彼がいることが違和感しかない。


 ——やはり澤井は、安田の代わりに槇を立てるつもりか。


 副市長室内には、天沼の姿がない。人払いがされていての密会ということは、そういうことだろうと保住は踏んだ。


 保住と入れ違いに副市長室を出て行こうとする槇に声をかけた。


「槇さん。野原課長のお見舞いに行かれましたか」


「なに?」


 彼は足を止め、怪訝そうな表情で振り返った。


「やはり。課長と最後にお会いになられたのはいつです?」


「一週間程度会っていないだろうか。今は立て込んでいて、安田市長の家に泊まり込みだ」


「そうでしたか」


 野原には口留めされているが、自分が知ってしまって、黙っているのもどうかと思う。伝えたところで、会いに行くのかどうかは、槇しだい。この忙しい中、野原に時間を割くかどうかは彼しだいなのだから。


「昨日からご入院されておりますよ。本人は『いつものこと』って言っておられましたけど。あなたには伝えるな、ともね。しかし、こちらの勝手な判断でお伝えしておきましょう。ちょうどよかったです」


 保住の言葉に、槇は「あいつ」と舌打ちをする。それから、保住を見た。


「賢明な判断だ。すまない。ありがとう」


 廊下に出た槇の背中は、どことなしか慌てているように見えた。


「野原はどうしたのだ。入院とはなんだ」


 ソファに座ったままの澤井は声を上げた。


「栄養不足だそうですよ。いつもお菓子ばかり食べていますからね。あの人」


「今時の日本で栄養不足とはな! この多様な食生活がもたらす弊害——ということか。現代病だな」


「食事だけは毎日のことですからね。難しいですね」


「それは同感だな。おれも困ることなどないと思っていたのだが……。食生活とは日々のこと。なかなか難儀しているところだ」


 ——妻がいなくなって?


 保住は目を瞬かせて澤井を見る。彼は「ふふ」と愉快そうに笑みを見せた。


「お前には言っていなかったか。離婚したのだ。つい先日」


「え? そ、そうですか。それは、なんと言ったらよいのか」


「喜べ」


 彼は嬉しそうに保住を引き寄せてきた。


「な」


「おれは独り身だ。堂々たる独身だぞ。お前となにをしてもはばかられないということだ」


 保住は、はったとして澤井の手を振り払った。


「勘弁してください。男同士ですからね。憚られないということはないでしょう」


「はは。冗談だ。本気にしたか?」


「本気にしますよ。あなたの冗談は冗談ではない!」


 背筋が凍る思いだ。


「それにしても、あなたが料理をされるのですか」


「バカにするか。一通りは出来ると自負しているが。人に作ってもらうほうが好ましい」


「バカになんてしていませんよ。澤井さんにもそんな一面がある、と感心しているのではないですか」


「それがバカにしていると言うのだ。じゃあお前が作ってくれるのか? お前は料理などしなそうなタイプだろう。いや、まてよ。そう言えば、お前の部屋で初めての夜を過ごした時に、男の一人暮らしにしては調味料が揃っていると思った記憶があるな」


 澤井との関係性が出来たあの夜のことをわざと引き合いに出すつもりらしい。保住は不本意だという表情をするが、彼は全くもって相手にしない。


「あの時は愉快だったな。ロマンスであるはずの行為を拷問だと言っていた。面白くて仕方がない。どうだ。田口との情事は拷問か」


「澤井さん! セクハラ発言ですよ。そんな無駄話に時間を費やすなら、退室していいですか」


「そう怒るな。怒った顔もそそられる。今晩から飯作りに来いよ。どうせ田口もいなくて寂しいのだろう? おれが慰めてやる」


 なにを言っても、返って来る言葉はセクハラばかりだ。もう嫌気がさす。


「こんなに忙しいのに、あなたの面倒まで見ている時間的余裕はありません」


「時間があれば料理するのか。なら時間が作れるように配慮してやろう」


「市役所を私物化するのはやめてください」


「お前はすぐにそういうことを言う。新人の頃のほうが、もう少し融通が利いて面白い奴だったのにな」


「成長したのです。少しは褒めてくださいよ。第一、組織の人間としての立ち居振る舞いを教えてくれたのは、あなたですよね」


 保住の指摘に、澤井は「心外だ」とばかりの表情を浮かべた。


「おれはそんなお堅い振る舞いを教えた覚えはないぞ。やはりずっと一緒に連れて歩けばよかったな」


「また、そんな無茶な話。勘弁してください。返答に困ります」


「困らせてやろう」


「ですから! あなたとの話は切りがない」


 保住がそう言って黙り込むと、澤井は真面目な視線を向けてきた。


「槇ここにいたこと、口外するなよ」


「——心得ております」


 ——やはりな。妙によく喋るのは、槇のことを隠したいのだろうが。


 しかし、澤井は意外にも言葉を続けた。



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