第7話 病室での接吻



「槇さんには、お話されていますか」


 保住は田口に視線を寄越した。槇の姿は見ていない。首を横に振って見せると、野原が天井を見つめたまま口を開いた。


「市長選で忙しい。おれのことをかまっている暇はないから、知らせていない」


「そんな。一緒に住んでいるのではないですか」


「選挙前は安田市長のところに泊まり込みだ。どうせおれ一人だし。心配ない」


 彼はそう言ったかと思うと、すっかり瞼を閉ざして眠り込んでしまった様子だった。黄色の液体が入っている点滴のボトルがぶら下がっている。保住はそっとカーテンを閉めると、田口の元に戻ってきた。


「おい、とんだことになったものだな」


 保住は愉快そうに口元を緩める。


「大部屋に出た途端にこれですよ。少々、驚いておりますが、退屈していたので問題ありませんね」


「野原課長のことをいじめるなよ」


「保住さんが、誰かをかばうなんて珍しいことです。というか、おれのほうがいじめられると思いますけど」


 田口は苦笑した。それに釣られて保住も笑みを見せた。その笑顔を見ていると、田口の気持ちはざわざわと波打ち、堪らなくなる。


 ずっと一緒にいた。もう毎日のように、毎晩のように。こうして彼との時間が田口にとったら幸福以外のなにものでもないのだ。

 ふと伸びてきた保住の手が、田口の左足に触れた。固定されて包帯で巻かれている田口の足を、細い指先がそっと触れるそのしぐさは、保住に愛されているように思われて、心が躍った。


「早く帰ってきて欲しい」


 彼の唇から洩れる言葉は、耳を疑うようなものだった。自分の気持ちを易々と口にするような人間ではないからだ。


「嬉しいんですけど。そんなことを言われると」


 伸ばした腕で、保住の首を引き寄せ、それからすっと唇に顔を寄せた。松岡のおかげで、しばらくの間、安齋との同棲生活を余儀なくされていた。しかもその流れでこんな大怪我をし、入院になってしまった。保住とのあの生活が恋しいのだ。

 田口は保住の頬に口づけをし、それから唇の脇にも口づける。遠慮がちな態度を見せると、保住は笑みを浮かべた。


「遠慮しているのか」


「します。なんだか不安になって」


「お前だったら不躾でも許してやる」


「本当ですか?」


 保住の答えを待たずに田口は彼の唇を噛んだ。保住の細い指先が頬にかかる。躰を動かすと痛みが強いが、そんなものはどうってことがないのだ。


 きっと保住も圧迫骨折をしていた時は、こんな痛みを覚えていたのだろうと思うと、その辛さが共有できたかのような錯覚に陥り、ますます気分が昂った。

 開かれた唇の間から舌を差し入れて、中をくまなく舐め上げる。カーテン越しに野原が寝ているというのに、情動を止めることができない。声を堪えるかのような保住の仕草もまた煽情的で興奮した。しかし、それも束の間だ。保住の手で、その口づけは遮られたのだった。


「お前、調子に乗るなよ。どこだと思っている」


「でも」


「病室だろう? 退院してからな」


「——わかりました。ではリハビリ頑張ります。退院したら、おれの満足するまでしてくれますか? いつも途中で止められて。ほとほと欲求不満です」


 真面目な顔でそう言ってやると、保住は目元を赤くした。


「包み隠すこともなく、あっけらかんと言ってくれるものだ」


「すみません。保住さんのことになると、どうしても我慢がききません」


「馬鹿者が」


 保住は照れているのか、視線を伏せる。それから、思い直したかのように瞳の色を変えて田口を見据えた。


「ともかくだ。早く退院できるようにしろ。今のお前の仕事はそれだ。辛いかも知れないが、さっさとこなせ。待ちくたびれるだろう」


 それからしばらく仕事の話をしてから、保住を帰らせた。きっと彼は疲れているに違いないと思ったからだ。タッパーに入っている煮物を眺めながら、彼のことに想いを馳せる。


 職場と自宅との行き来の間に、病院に寄るという日課が増えたのだ。言葉にすれば、「たったそれだけのこと」ではあるが、連日のことになると、それはものすごい労力になるに違いないのだ。仕事も自分が抜けたおかげで忙しいだろうし。差し入れのおかずまでもってきてくれるのだ。


「迷惑かけ通しだな」


 里芋をつまんでから、その味に目を瞑る。もうすっかり面会時間は終わりに近いのだ。静かになっている病棟内だが、ガタガタと物音がしたので、はったとする。この病室で田口以外に動ける人間は彼しかいないのだ。


「課長、大丈夫ですか?」


 カーテンを開いて野原を確認する。彼は点滴台を掴んだままそこにうずくまっていた。足が丈夫であったら、すぐにでも駆けつけるところだが、それは叶わない。すぐにナースコールのボタンを押し、それからそばの松葉杖を握って立ち上がろうとすると、若い女性看護師が顔を出した。


「田口さん、どうしました?」


「あ、あの。おれではなくて。野原課長が……」


 少しぽっちゃりとした体型の看護師はつられて野原に視線を向けた。


「あら、どうしたんですか。野原さん」


「少し眩暈めまいで振られただけ。大丈夫」


 しかし彼はうずくまったままだ。


 ——全然、大丈夫ではなさそうなんだけど。


 体格のいい看護師の手にかかれば野原など軽々しいものらしい。彼女は慣れた手つきで、さっさと野原をベッドに座らせた。


「夕飯もほとんど食べていないし。水分もだし。点滴しているからって油断していると、治りませんよ。早く退院したいなら食べないと」


 お説教をされても、それどころではないのだろう。彼は無言で点滴台にしがみついていた。


「トイレですか? 付き添いますから」


「え! いい」


「中までなんて入りませんよ。それに、別に男性の下半身なんて見慣れていますから、恥じらうことないです」


 堂々と言い切る彼女に、田口のほうが恥ずかしい気持ちになった。


「課長、一人では無理ですよ。付き添ってもらいましょう」


 田口の声に顔を上げた看護師は目を輝かせた。


「課長って、田口さんは野原さんの部下なんですか」


「元ですけど」


「へえ。野原さんって市役所ですよね。課長さんだなんてかっこいいですね。彼女いるんですか? 私、空いていますけど?」


 人懐こい笑みを見せる看護師に、野原は怪訝そうな顔をした。


「彼女はいない。空いているってどういうこと」


「あら、彼女いないんだ~」


「課長。槇さんは……」


「あらやだ。彼女いるんじゃないですか」


 野原は田口を見る。


「あれは彼女じゃないでしょう」


 ——まあ確かに。槇さんは男性で彼女とは言わない。


 田口は苦笑いをするしかなかった。


「あ~。田口さんは圏外ですよ。女子は肩書に弱いんです。平社員はご遠慮ください」


「はは。残念ですね」


 ——どこがだ! こっちが願い下げだ。


 愛想笑いを見せてやるが、顔が引きつってやしないだろうかと心配になった。野原は軽々と彼女に抱えられて病室を出ていった。


「それにしても、食事、まずいだろうか……」


 田口は首を傾げてから、保住の作ってくれた煮物に視線を向けた。




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