第6話 嬉しい気持ち



 夕飯後。保住が差し入れをしてくれた文庫本を開く。「ふんどし刑事デカ、にゃん吉の事件簿その1」。


『本など読まないからよくわからん。書店に寄ったら、今月のベストセラーになっていたから買ってきた』


 彼はそう言っていたのだが……。そもそもタイトルからして、大人が読む内容なのかと疑問だった。しかし読み始めると、なかなか面白い。

 ハードボイルドにゃん吉刑事デカの活躍劇である。猫のクセに、組織人——いや、組織猫——として、葛藤しながらも自分流を貫くさまが、サラリーマンに大受けな理由がよくわかる。


「本を読むなんて、いつ振りだろう」


 仕事仕事に明け暮れている。特に保住と出会ってからというもの、自宅にいるよりも職場にいる時間のほうが長いのではないかと思われる。しかしその時間は、束の間。そう。一人で踏ん張っていた農業振興係時代よりも、はるかに楽しく、充実しているからだった。


 田口の脳裏には、松岡とのやり取りが思い出された。あの当時、彼に妙につっけんどんにされた理由がよくわからなかった。 後少し。後少しで、事業が成就する——。そんな矢先に仲のいい農家から言われた。


『田口さん。おれたちのこと、騙していたのかい?』


 あの時は目の前が真っ暗になった。まっすぐに裏表なく向き合ってきたつもりだったのに。


『聞いたよ。あんだ、おれたちをだまして、その日本酒、別の酒造会社に製造依頼する気だって。話が違うでねーか。バカにしてんのか?』


 彼は自分に嫉妬していたと聞いているが、そんなことはどうでもいい。それよりもなによりも。そんな思いを市民にさせたことが許されないのだ。自分のことを陥れるために、市民を利用する手口は、田口にとったら到底許されないことだったのだ。


 ——松岡はおれが嫌いかも知れないが、それは同じこと。おれだって、お前のこと許せないんだ。


 一人でいると嫌なことばかりが思い出される。目で追っていた活字が頭に入ってこない。諦めて本を閉じたとき、カーテンが少し開いて保住が顔を出した。


「銀太。どうだ、調子は」


 彼の顔を見た瞬間。とげとげとした気持ちや、動悸がするほどの大きな不安が、一瞬で和らぐ。


「すみません。毎日、お忙しいのに」


「忙しくなどない。部屋の差額代の書類を預かってきた。雪割に郵送して——と思ったが、お前の母親から代筆で書いておけという指令がきたからな。明日、また持ってくることにしよう」


「すみません。お手数ばかりですね」


 保住はそばの丸椅子を引っ張り、そこに腰を下ろした。


「別に構わない。家族なのだろう? おれたちは」


 彼はさらりと言い退けるが、田口にとったら嬉しい言葉であることに違いない。椅子に落ち着いた保住は周囲を見渡した。


「それにしても、いきなり狭くないか? お前サイズでは窮屈であろう」


「いいえ。大丈夫ですよ。一人部屋なんて、おれには贅沢でしたから」


「差額代なんて気にするな。たまにしか入院しないのだ。悠々と過ごせばいいものを」


 保住は背負ってきたリュックからタッパーを取り出す。こうして食事の差し入れも日課になりつつあるところだ。内臓疾患でもない。食事制限があるわけでもない。病院の食事では少し物足りない彼のために、保住はなにかとおかずの差し入れをしてくれていた。


「いつもすみません」


「職場の冷蔵庫にしまっておいたから、温めたほうがいいかも知れないぞ」


「結構ですよ。大丈夫です」


 そんなやり取りをしていると、ふと田口は野原のことを思い出した。


「あの、そう言えば」


「え?」


 田口はそっと声を潜めて、保住に耳打ちをした。


「あの。野原課長が——」


「なんだ」


「ですから……」


 田口は身振り手振りで向かい側のベッドを指し示した。保住は訝し気だが、田口の真面目な気持ちを汲み取ってくれたのだろう。腰を上げ、向かい側のベッドの前に立った。


「保住ですが。野原課長ですか。失礼いたしますよ」


 彼はカーテンを開く。ベッドの上で本を開いていた野原は「おかえり」と言った。


「どういうことなのでしょうか。よりにもよって銀太と同室など」


「いつものこと。それに、部屋はおれが決めたわけじゃない」


 二人の会話では主旨が見えないと思った田口は口を挟んだ。


「お菓子ばかり食べているので栄養不足になったみたいですよ。渡辺係長が付き添ってきていました」


「別に。お菓子が好きなだけだし」


「呆れますね」


 保住は腰に手を当ててため息を吐くが、野原は心外だとばかりに眉間に皺を寄せた。


「呆れられるようなこと?」


「呆れますよ。本当に。食事くらいご自分で管理していかないと。お菓子は補食です」


 そう言っている保住も、食に執着のないタイプだ。保住の場合は菓子も食さないのだから、どちらがいいのか悪いのかはわからない。田口は黙って様子を見守った。


「病院の食事はバランスがいいのです。しっかり食べて、栄養を取り戻さないと仕事できませんよ」


「病院のごはんは美味しくないから嫌い」


「そうですか。おれ、結構おいしいと思うんですけど」


 田口は首を傾げて口を挟んだ。『病院食はまずい』というイメージを持っていたのだが、市立病院の食事は比較的、味は悪くない。看護師に尋ねたところ「病院もサービス業ですからね」という返答が返ってきたのを思い出したのだ。


 しかし野原は首を横に振った。


「なんだか苦い味がする。美味しくない」


「課長、栄養不足で味覚がおかしいのではないですか」


「そんなのは知らない」


 保住と田口との会話をしている野原は、眠そうに目を擦った。


「本など読まずに横になられたほうがいいですよ。休息のために入院しているようなものです。栄養も足りていないということは、頭を使う作業はいけませんよ」


 保住の言葉に、野原は珍しく素直に頷いた。


「疲れた」


「でしょうね」


 保住に促されて、野原は布団に横になる。仕事をしているときでも、陶磁器みたいな顔色は、ますます蒼白い。血色も悪く体調が悪いということは、周囲の目からみても一目瞭然だった。




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