第5話 凶悪な女医
「しかし、どうして同室だなんて。偶然にもほどがありますが」
「そんなこと、おれが知るわけないでしょう。看護師に聞いて」
野原はさすがに具合が悪いと見えて、言葉にキレがない。ベッドに横になると、そのまま目を瞑った。
栄養不足ということは
「あまり騒いでくれるなよ。課長。眩暈がひどくて座っていられなかったんだよ」
「すみません。驚いたもので」
首を引っ込めて謝罪の言葉を述べると、渡辺は笑みを浮かべた。
「しかし元気そうでよかった。すまなかったな。おれたちではなんの力にもなれなかった——全く持って失格だな」
「そんなこと、言わないでくださいよ」
「みんな心配している」
渡辺たちは、すっかり別の部署だから、田口が怪我をしたことについて無関係であるはずなのに。こうして心痛めてくれているということに、申し訳がない気持ちと、それから少し嬉しい気持ちが入り混じった不思議な感覚に陥った。
「おれは病院の世話になったからいいんですけど。あの——」
口ごもる田口の様子を見ていた渡辺は、その意図をくみ取ったのか、ふと笑みを見せた。
「保住室長のことか?」
「そ、そうなんです! 部署違いですし、難しいことはわかっています。ですが、なんとか保住さんをお願いします」
頼まれても困るだろうな、と思っていても、自分の気持ちが収まらないのだ。渡辺は笑うことなく「わかったよ」と答えてくれた。一緒に働いていた時もそうだったが、渡辺はよくできた先輩だ。田口の思いを丁寧に汲み取ってくれるのだから。
「ありがとうございます」
再び頭を下げると、この病棟の師長である鈴沢という女性が入ってきた。
「野原さん。お母さまに連絡取れましたから」
彼女は毅然とした風貌だ。看護師の長は風格が違う。厳しそうだと田口は思った。鈴沢は細い眉をひそめてから野原を見下ろす。
「今、いらっしゃるそうです」
目を閉じていた野原は「余計なことを」と呟いたが、それと同時に濃紺色の上下のパンツスタイルの女性が姿を現した。テレビドラマなどでよく見かける「医者」という風貌だ。
肩までのボブヘアは彼女を若く見せている。田口は40代くらいだろうかと予測した。したのだが——。
「
彼女は開口一番にそう言い放つと、ベッド脇に仁王立ちになった。野原は鬱陶しいとばかりに、瞼を開く。
「おれは具合が悪いから入院させてもらっただけ。騒がしくしないで。母さん」
「か、母さん!?」
その場にいた渡辺と田口は大きな声を上げる。病院関係者は周知のことなのか、大して驚いた様子はみられない。野原とそう年齢が変わらない様子の女性を、渡辺はわなわなと震えながら見ていた。
「副院長、そう怒らなくても。かなり血液検査の結果が悪いんですから。本人は辛いと思いますよ」
打っても響かないような野原の態度に業を煮やしたのか、野原の母親は、彼の頬をつねり上げた。
「こんなねえ、いい年して。本当に呆れるわけですよ。悪いけど、あなたを受け入れるのは今回限りですからね。次回、こんな
「は、はい」
病棟師長の鈴沢がなぜ怒られるのか。田口には皆目見当もつかないものだった。
「別に。ここの病院が気に入っているわけじゃない。
「
母親にぴしゃりと言い渡された野原は口を閉ざした。いつもだったら、その天然で周囲を黙らせるくらいの威力を持つ野原の言葉も、母親には通用しないらしい。なんだか田口は笑ってしまった。
「主治医は?」
「橋本先生です」
「わかりました。さっさと退院させるようによく言っておきます」
「あの、副院長。個室が埋まっておりまして。明日には移動させますから」
「その必要はありませんよ。贅沢ばかり言って」
「別に、個室に入りたいなんて言っていない」
「うるさい!」
彼女は野原を足蹴りにする。終始唖然とするばかりである。田口は、ぽかんと口を開けて親子の攻防を眺めていた。しかし、ふと田口の視線に気が付いたのだろう。野原の母親が田口を見た。それに気が付いた鈴沢は田口を紹介してくれた。
「あの、同室になる田口さんです」
「あらやだ——」
「あ、あの。田口です。自分も市役所職員でして。野原課長にはすっかりお世話になってばかりなのです」
「そ、そうなのね」
野原の母親はそれから渡辺を見る。意外にも他人がいることに気まずい様子だ。
「と、ともかく。早めに退院すること。いいわね」
バツが悪くなったのだろう。彼女は「うふふ」と取り繕った笑みを見せてから病室を出ていった。
「あ、あの。副院長先生って、課長のお母さまだったんですか。だから家族に連絡って」
渡辺は呆気にとられた表情を浮かべて野原を見下ろす。彼は顔色一つ変えることなく一瞥をくれた。
「母は母だ。おれには関係ない」
「雪くん。関係なくないんですよ」
鈴沢は大きくため息を吐く。
「今回は言うことをきいて。しっかり療養しないといけませんからね」
野原は黙り込んだまま返事をしない。それを見て鈴沢は厳しい口調で「いいですね?」と念を押すようにもう一度言った。
「——はい」
女性二人に叱責されて、野原は形無しだ。業務中の彼とはまた違った一面を垣間見て、なんだか笑ってしまう田口であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます