第4話 偶然



「これから病院に寄らなくてはいけないんですよ。書類を預かる算段になっているんです」


「なんだ。そんなもの。郵送させればいい話ではないか」


「親御さんから頼まれているのです」


「家族ぐるみか。ほほう」


「副市長……っ」


 保住は声を押し殺して、本気で澤井をにらみつける。公衆の面前で人をからかうのは止めてもらいたいと思ったからだ。しかもそこには、政策調整係の高梨が姿を現した。 彼もまた、ここのところ連日のようにやって来る。まるで貧乏神みたいだと保住は思っていた。


保住ほうちゃん! いつになったら同期会するんだよ~。発起人が動かないといつまでも開催しないでしょう」


「誰が発起人だ! 勝手にそんなものにするなっ」


 高梨を足蹴にしていると、澤井が口を挟む。


「貴様。おれを出し抜くつもりか?」


 澤井のドスの聞いた声は、普通の人間であれば恐れおののくはずだが、高梨はそんなものは関係がないようだ。ただ首を竦めて舌をぺろりと出して見せた。


「出し抜くだなんて。副市長。おれは保住ほうちゃんを誘いに来ただけじゃないですか。あれ? 副市長も保住ほうちゃんに用事だったんですか」


「それが出し抜きだと言っているのだ! 貴様!」


 そこで遅れて天沼が駆けつける。澤井を探していたのだろうか。彼は少々、顔色が悪く軽く息が上がっていた。


「副市長! やっと見つけましたよ。今日は帰れません。市長との会食が……」


「うるさい」


 そこでやっと、澤井がここに来た理由を理解する。保住はため息を吐いてから、澤井に一瞥をくれた。


「市長との会食に出たくないだけですよね。おれをダシに使うのはやめてください」


「なにを勝手に解釈しているのだ。別に市長との会食が嫌でお前を誘っているのではないのだぞ」


「何度も申しあげておりますが、上司と部下の関係性を利用して、不本意なことを強要するのはパワハラだと思います」


「パワハラなどという流行りの言葉など、おれは知らん。どうせ田口がいないのだから、ロクな食事も摂らないだろうと心配してやっているのだ」


「いらぬ心配です! 料理は得意なんです」


「ほほう。なら作ってみろ。おれが評価してやる」


「結構です!」


 なんて騒ぎなのだ、と保住は思った。田口が待っている病院に気持ちは向いているというのに、躰が思うようではないことに苛立ちを覚えた。リュックの肩紐を握りしめてから、保住は走り出した。


「それではお先に失礼いたします!」


「あ、逃走した!」


 後ろで気の毒そうな表情を浮かべている安齋と大堀を残し、保住は全力で走る。——と言っても、彼の全力は一般的な尺度から見ると、かなり遅いのだが……。澤井や高梨はそこまで追いかけるほどのことでもなかったのだろう。


 ——暇潰しに決まっているのだ。


 保住は職員玄関へと遅い脚で必死に向かった。



***



 うつらうつらとしていたようだ。昨日までとは打って変わってのスパルタリハビリは、なまっていた躰には堪えるらしい。痛みが軽くなっているわけでもないのだ。トイレに行くのも一苦労だった。


 ——しかし、いつまでも安静にしていても仕方がないのだ。


 田口は薄暗くなった窓の外に視線を向け、大きくため息を吐いた。炎症反応があると医師から聞いている。夕方になると微熱が出てくるのか、躰がだるく感じられた。先ほどやってきた看護師が氷枕を預けてくれた。火照っている頭に、ひんやりとした枕は気持ちを落ち着かせてくれる。


 日中帯とは打って変わり、夜勤へと移っていくこの夕暮れ時は、せわしない雰囲気と夜に向かう静寂とが入り混じっているような、なんとも言えない気持ちになる。


 病人には夜が辛いという言葉を聞いたことがあるが、田口にとったら、それは違っていた。なにせ、もうすぐ最愛の人が会いに来てくれるからだ。一日の中で一番、幸福な時間がこれから訪れる——そう思うと嬉しくて心が躍った。


 隣の高齢者たちは昼間と変わりなく寝ている。夜間になると目を覚ますのだろうか。夜中に時折「うんうん」と唸り声が聞こえる。気が付いた時はナースコールを押してやると、夜勤の看護師になにやら声をかけられていた。

 寝ている向きを変えてもらうのだろうか。

 それともおむつの交換なのだろうか。

 カーテン越しのやり取りは、田口にはわからない。しかし全てが終わると、高齢者はおとなしくなり、看護師は田口に「呼んでもらってありがとうございます」と声をかけて去っていくのだ。


 今日もそんな静かな夜を想像して横になっていると、病室内が騒々しくなった。


「もう、だから言っているじゃないですか。大丈夫じゃなかったですよね」


 一人の男の声が妙に耳に突く。


「付き添いの方はお静かに願いますか」


「しかし」


 女性の声は看護師であろうと思われる。尋ねられた男性とは違った、ぶっきらぼうな声で「平気」と聞こえてくる。


「平気って……。それよりも人事にも連絡を取らないと」


「渡辺さんが言っておいてよ」


「それはそうですけど」


 ——渡辺さん? え?


 田口は、はったとした。どこかで聞き覚えのある声だと思ったからだ。重い躰を起こし、それからカーテンを少し引っ張って、向かい側の空いていたベッドを覗き見る。入院してきたばかりで、騒然としているおかげで、カーテンは開いたまま。そこにいる人たちの様子が一目瞭然だった。ぽかんとしてその様子を見つめていると、ベッドの上にうずくまっている男に、説教をしているスーツ姿の男が田口を振り返った。そして二人は視線がぶつかった。


「田口?」


「え? 渡辺さんですか」


 渡辺は視線を合わせたまま、ぽかんとした顔をしていた。彼は田口の前職で世話になった男、教育委員会文化課振興係長の渡辺だ。ということは——。田口はベッドに視線を向ける。そこにはいつもにもまして、蒼白な顔色の教育委員会文化課長の野原が座っていた。


「野原課長! どうされたんですか」


 野原は表情を変えることなく、田口を見てから右手を軽く振った。


「よくあること」


「よくあることって。そんな手を振っている場合ではないんですよ?」


 渡辺は呆れた顔をした。


「職務中に具合悪くなったから、こうしてお連れしたんだが」


「栄養不足なんだって。いつものこと」


「栄養不足ってなんです。お菓子ばかり食べているからではないですか」


 田口はため息を吐いた。野原はそもそも菓子が好きな男だったと記憶している。弁当を食べるより菓子を食べている姿を良く見ていたことを思い出したのだ。


 ——あれじゃあ、栄養不足になるだろうな。飽食の時代に、こういうことってあるものか。


「なんだか漫画のオチみたいですね」


 野原という男はかなり変わっている男だ。保住とタイプは似ているが、まだ彼のほうが人間として生活する術は心得ているものだ。野原は放っておくと、生活がままならないタイプかも知れないと思った。






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