第6話 落ちる



「田口銀太という男は心根が据わっている一本気な奴だ。上司に叩かれてもへこたれない。それでも自分の事業をなんとか通そうと、必死に食らいついていた。そんな彼を同僚たちも応援していたそうだ。しかもそのまっすぐさに心打たれたのは、市民も然りだった。農家の人たちに可愛がられて仕事をしている田口を見て、お前は


「な、なにを言っているんですか。そんな昔のこと——。忘れました」


「おやおや。そんな簡単に忘れられることではないと思うがね。なにせ、お前が中央部署から外されて、支所に飛ばされた原因になった案件だぞ?」


 ——この人は知っている。


 松岡は背中に冷たいものが流れる。ぼんやりと目の前の男を見つめる。心が、なにも感じられないのだった。


「当時の農振課職員にも話を聞いた。事業に関わってくれた農家の人にも話を聞いた。お前は人目ひとめはばからずに、堂々と田口に反抗心を見せていたそうだな。企画調整をする立場にあるというのに、協力をしているというよりは邪魔をしているように見えた、と当時関わっていた農家の人が言っていた」


「それは、その人の捉え方ですよ。おれは、おれの役割を遂行していただけです」


「そうだろうか? 市民に市役所職員の悪評を流すことがお前の仕事なのか」


「誤解ですよ。それこそ根も葉もない嘘だ。おれを陥れようとしている人がいるのです」


「ほほう。それは一体誰なのだ?」


「——さあ。そんなことわかりませんよ。おれだって知りたいんだ。きっと田口がやったんじゃないですか。自作自演でしょう? おれを陥れようとしたんですよ。自分の事業がうまくいかないからって、おれのせいにしたんです」


「しかしお前は、その件で処分を受け、支所に出された。そして中央の部署に返り咲くことが出来ていない。田口を恨んでいるのではないか」


 ——恨んでいるかだって?


 松岡は眉間に皺を寄せる。


「自分はすっかり出世コースから外れた。なのに、ことの元凶になった田口自身は、今回市制100周年記念事業推進室へ抜擢されたのだ。面白くないだろう? しかもこんな近くで、毎日のように彼を眺めていなくてはいけないんだからね」


「——保住室長は超能力者みたいですね。おれの腹の内がわかるんですか? これはすごい。しかしそれだけでは、おれが田口を傷つけようとしたり、階段から蹴落としたりした証拠にはなりませんよね」


「そうだな」


「警察がなにか言っているですか? それともこのカミソリにおれの指紋でもついていましたか」


 松岡は自分に言い聞かせる。大丈夫だ。自分が犯人であるという証拠はない。カミソリの指紋は消した。これを仕込んだのも誰もいない早朝だった。自分は観光課のフロアの掃除をしている。朝早くにあちこに出入りしていても怪しまれる心配もないのだ。何度も推進室の職員とは顔を合わせている。特に問題はなかった。


 予想外だったのは、怪我をしたのが田口ではなく佐々川だったということだけだ。佐々川には悪いことをしたが、まあいい。どうせ彼からも信頼もされていないのだ。別にどうってことはない、と松岡は思っていたのだ。


 ——どうせ素人だ。


 市役所が警察に通報するのは、よほどのことであるとういうことを、とある人から聞いているのだ。今回の階段事件では、さすがに警察沙汰になったようだと聞いたが、意外にも警察からなにか尋ねられるということもない。

 ここまで組織の中で起きたことをひた隠しにしようとするのだ。梅沢市役所も腐っているものだと思っていたところだった。


 だがしかし。保住は松岡の予想に反して動じることなく冷たい視線を向けてくるばかりだ。なんだかバカにされている気がして、無性に腹が立った。


「このカミソリね」


「そうですよ。それ。なんの証拠があって——」


「おれは、使


 はったとして口を閉ざすが遅い。保住は「ふふ」と笑みを浮かべた。


「どうしてわかった」


「だ、だって。そういう話をしているんじゃないですか。普通はそれが凶器だと思うでしょう」


「そうだろうか? それは安易というものだ。まずは『それはなんです』と尋ねるのが自然だと思うがな。それに、お前はもう一つのミスを犯しているのだ」


 ——ミスだって?


「田口の机に凶器が仕掛けられ、佐々川課長が負傷した件については、当日その場にいた者たちに箝口令かんこうれいが敷かれた。副市長名でな。つまり。公にされている情報ではないということだ。一言でも洩れ、澤井の耳に入ったら——という尾びれがついてな。おれはそれ以降、誰からもこの件を聞いたことはなかった。澤井という言葉は、抑止力としてはかなり有効だ。佐々川課長の話によると、当日居合わせた職員が、いなかった同僚にこの件を話しているということはないと言っていた。わかるか? その意味が」


「え! わかりませんよ。週末だって、おれたちは出勤していますし。いや、あの日は早退しましたが、月曜日に聞いたんですよ。あの、誰からかは忘れましたが」


「そうだ。お前はあの日、朝はいつも通り出勤したのに、半日で帰ったそうだな。人事に確認済みだ。不安になったのか? 犯行の場面に立ち会う度胸がなかったのか?」


 心臓が跳ねた。あの日は朝からずっと、精神的に張り詰めていた。ところが田口は出勤してこなかった。昼までは様子を見ていたのだが、一向に姿を見せない田口に業を煮やした。そして事が起きるのは週明けだと、勝手に自分に言い聞かせて帰宅したことを思い出したからだ。


「あの日の観光課職員たちの勤務の状態を調べてみた。当日、いつもとは違う変則的な動きをしたのはお前だけだ。だから、余計に目立ったぞ。人事課の根津がお前を訝しんだ理由は、それだったようだ。いつ、どうなるかわからない仕掛けは、お前のような肝の小さい男には不向きであったな」


 保住の不敵な笑みは、地獄の門番のように見える。自分は深い暗闇に片足を引きずり込まれているような感覚に陥った。


 ——寒い。冷たい。なんだ、これは……。


「あの場に居合わせなかったお前には、佐々川がカミソリで怪我をしたと知る余地はないということ。観光課職員たちには念入りに話を聞いている。そして、誰一人として、この件をお前には話していないということだ」


「そんな。嘘ですよ。誰かから聞いたんです。きっと。そいつがおれを陥れようとしているんだ」


「誰だ」


「誰って……急に言われても」


「残念だ。松岡。お前の観光課での立ち位置は聞いている。同僚とは口も聞かないほど険悪で、疎外されているそうだな」


 そうだ。誰も。おれのことを理解することなどないのだ、と松岡は心の中で叫んだ。


「佐々川が怪我をしたあの瞬間。あの場に居合わせなかったことが、お前の運の尽きだ」


 途中から俯いていた松岡は、張り詰めていた糸が切れた。






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