第5話 謎解きは会議室で
副市長室の内線が鳴った。電話機には庁内の内線番号が登録されており、部長クラスからの電話は澤井が受け取るが、それ以外の電話は基本的に天沼が受けていた。推進室という例外を除いては——。
「はい。副市長室の天沼です。……お疲れ様です。ええ、そうですか。わかりました。副市長に申し伝えます。追って指示があるかと思いますので、お待ちください」
天沼は事務的に応答をすると、すぐに受話器を置いた。その様子を眺めていた澤井は、老眼鏡を外してから視線を寄越した。
「なんだ」
「保住室長が動くようです。いかがいたしましょうか」
神妙な表情の天沼に反して、澤井は愉快そうに笑う。
「止まれと言って止まる男なら、もう見捨てている。あいつの好きにさせておけ」
「しかし」
——本当にいいのでしょうか。保住室長が危ない橋を渡ろうとしているのに。
「おれは午後から庁議だ。身動きが取れない。お前がサポートしてやれ。田口もいないのだ。冷静さにも欠けている。一人で突っ走るに決まっている。きっと仕掛けても落としどころまで考えてはいないだろう」
——そういうことか。
天沼は大きく頷いた。
「承知しました」
それから彼は受話器を持ち上げた。先ほどの電話の相手に連絡をするためだった。
***
ここのところ嬉しい事が続いていた。自分の願いがかなったこと。それから今日は上司に呼ばれたのだ。
『お前に頼みたい案件があるそうだ。午後一時にミーティング室に行ってくれ』
——ついている。幸運が舞い込む。やっとおれのところにツキが回ってきているんだ。
それはとてつもなく長いトンネルだった。やっと自分はこの状況から脱することが出来るのかと思うと心が躍ったのだった。
男は時計を見て、約束の一時前になったことを確認し、席を立った。
「今日は機嫌がいいじゃない」
同僚に声をかけられても「まあね」と、軽く答えながらミーティング室に入った。そこには依頼主である市制100周年記念事業推進室の現場の責任者——推進室長の保住が一人座していた。
「いやあ、ご足労をかけますね。観光課観光係の主任、松岡さん。おれは市制100周年記念事業推進室長の保住です」
——そんなことは知っている。
松岡は心の中でそう呟いてから笑顔を見せた。
「承知しております。あの佐々川課長からお話があるとお聞きしましたので」
「そうなんですよ」
保住は松岡を椅子に座るように促した。
「先日もお話しましたが、キミの献身的に業務に取り組む姿勢には感服しているんですよ。実はね。うちの部署で欠員があってね。いい人材を探しているところなんですよ」
松岡は目を輝かせて保住を見た。
——この人は自分のことをわかってくれている……。
しかし、保住と視線が合ってから、はっとした。保住の瞳が笑っていないからだ。表情は笑顔なのに、目が笑っていない。洋風な陶磁器の人形みたいに見えたのだ。
その底知れない瞳の色に、松岡は意味もなくぞっとした。
「キミは市制100周年記念事業に興味がありますか?」
「もちろんです。市役所の最重要事業です。興味がない職員などおりません」
「そうですか。では、どうでしょう? キミは田口銀太の代わりに市政100周年記念事業推進室の席に座りたいですか」
『田口銀太』という名に松岡は微かに眉を動かした。相手に気取られないようにと注意をしていたつもりだったが、気持ちが浮足だっていたらしい。はったとしたが遅い。保住は冷淡な眼差しで松岡をまっすぐに見ていた。
「すまないね。おれはせっかちで堪え性がないもので。松岡くん。では本題に入ろう」
保住は机の下からジップロックの袋に入っているカミソリを取り出した。
「キミはフロアを清潔にしてくれるだけでなく、余計なものを置いて行ってくれるようだね」
「なんなんですか。佐々川課長が怪我をしたことと、おれは関係ありませんよ。そんなものは知りません」
「そう? 松岡くんは全く関係がないと言うんだね」
「そうですよ。おれは観光課です。推進室とはなんの関係もないじゃないですか。なぜ、おれがそんなことをしなくちゃいけないんでしょうか。疑われているなんて心外です。おれは自分の良心に従って毎朝の清掃を続けているだけですよ」
保住は背もたれに預けていた体を起こしたかと思うと、手にしていた資料をテーブルに並べた。そこには自分の経歴が詳細に書かれている資料が置いてあった。
保住との物理的な距離が縮まると、妙な圧迫感を覚える。自分とそう年齢の変わらない男だと聞いているが、格が違うのだ——と松岡は思った。
「キミは田口銀太、いや、他の二名——安齋、大堀——とも同期だ。財務課、企画調整課、そして東部支所を経て現職だ。企画調整課時代に農業振興課に所属していた田口とは一緒に事業を受け持っていたそうだな」
「——同期と言っても、おれたちの年代は大量雇用の年ですよ。同期だから仲がいいというわけではないです」
「そう。キミたちは特に懇意にしているわけでもない」
「そうですよ。たった一つの企画を一緒にこなしただけです」
松岡の言葉に保住の瞳の色が濃くなった。なんだか罠にかけられているような気がして、はっとして口を噤んだが遅いのだろうか? 保住は口元を上げて笑みを見せる。
「そうだ。そのほんの些細な企画がキミの心を大きく揺さぶることになったんだ」
まるで蜘蛛の糸にからめとられたような気持ちになる。ざわざわとした不安が大きくなった。机の下にある指先がぶるぶると震えてしまいそうで、慌ててぎゅっと握りしめた。
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