第11章 人面獣心が巣食う組織
第1話 奈落の底
——頼んでいる書類が届かない。
先程、書類を持参するように指示した安齋は、その場での手直しが必要になり、ここに足止めされていた。
保住は時計を見た。大堀は田口と一緒に来るのだろうか。タイムリミットだ。澤井が細かい答弁をしている声が聞こえてくる。結局は書類など必要ないのだ。
——あの人は管理職のくせに現場向き。結局は頭の中にちゃんと資料は入っているのだ。
無駄な動きをさせられていることに苛立ちを隠せずにいると、ふと廊下が騒がしくなった。議会場の中へもその騒ぎが伝わったのか。議会事務局の職員が顔を出した。
「何事かあったのでしょうか」
廊下に飛び出した職員が事情を聴いたのか、すぐに駆け戻ってきた。
「階段から転落した職員がいるようで、救急車騒ぎですよ」
「転落って——」
保住は安齋を見る。控室にいた佐々川も顔を上げた。議会は中断することはない。「事情がわかればそれでよし」と議会局長の富樫が議会の続行を指示した。
胸騒ぎは動悸に変わる。駆け付けたい。事実を知りたいのだ。だがしかし、今まさに市制100周年記念事業の答弁中なのに、席を離れるわけはいかないのだ。保住の歯がゆい思いをくみ取ったのか、安齋が腰を上げた。
「おれが見てきます」
「頼む」
依頼した書類が届かないのだ。この騒動に巻き込まれて——胸騒ぎが大きくなったとき。ちょうど議会が終了するアナウンスが聞こえた。
『それでは今日の議事はここまで。散会いたします。明日は九時半からです。みなさまお疲れさまでした』
議長の声が終わらないうちに、保住は安齋を追って廊下に飛び出した。
救急車が到着したようで、大きなサイレンの音が止まった。
「室長!」
人だかりから安齋の声が聞こえた。そこには大堀が青ざめて立っていた。この世の終わりのような表情に、事のしだいを悟った。
——銀太。
人込みをかき分けて、階下を臨むと青色のガウンを着た救急隊員が数名、そこに倒れている田口を取り囲んでいた。
「ダメだ。意識がない」
「複数個所の骨折を確認。そっと移せ」
そんな声が聞こえる。耳元に心臓があるみたいに、動悸がひどい。彼の名を叫びたいのに、声が出ない。茫然として駆け寄ろうとしてもそれは叶わなかった。
——なぜ?
はったとして振り返ると、そこには澤井がいた。彼は動揺し、我を失っている保住の腰を引き寄せて、人込みから連れ出した。
「は……離してくださいっ!」
「だめだ。お前は付き添わせない。搬送先は聞いている。安齋を付き添わせる。——お前は落ち着け」
「……しかしっ!」
無我夢中で澤井の腕を引き離そうとしてもかなわない。そのまま副市長室に引きずり込まれた。躰がふわふわとしていて、目の前がぐらぐらとしていて心が定まらない。
「落ち着け。保住」
後ろから抱きかかえられたまま、耳元で響く澤井の声に混迷している気持ちが薄らいだ。そこでやっと自分の状況が認知できる。息をするのも忘れていたらしい。涙で前が見えなかった。
「おれのせいです。おれの——。おれがもっとちゃんと見ていないから……っ」
嗚咽が漏れた。
「安斎を留めなければよかったんだ。あんなもの。おれがやれば——」
「救急車に乗せてもらえたのだ。命はある。そう心配するな」
「しかし!」
「心乱すな。正常な判断が下せなくなる」
保住は振り返って澤井につかみかかった。
「そんなもの! そんなものは無意味です! なにが正常ですか。なにが異常ですか。そんなものは今となったら無意味なんだ……」
澤井の腕を掴んで保住は駄々っ子のように叫んだ。澤井はそれをじっと黙って受け止めているかのようだった。しばし泣き叫び、思いの丈をぶちまけたおかげで、混乱の波が引いてくるのがわかる。頭上から静かな澤井の声が聞こえた。
「お前のやるべきことは悲嘆することか。騒ぎ立てることなのか」
澤井の問いに、一気に意識が引き戻された。夢うつつのような世界だった眼前の光景が、一気に現実に変化した。
「そんな顔するな。心配になる」
おとなしくなった保住の目元を澤井は指で拭った。
「澤井さん……」
「大丈夫だ。田口のことはおれに任せろ」
「しかし」
「お前が心乱せば犯人の思うツボだ。冷静になれ。淡々と過ごすのだ。何事もなかったかの如くだ」
保住は彼の言葉に頷く。
「すまないな。お前たちを巻き込んだようだ」
「いいえ。これはあなたの件ではない」
——そうだ。これは田口の件。そして、おれたちへの挑戦状だ。
「あの、すみません。お取込み中ですね」
副市長室の入り口には、天沼と人事課の根津が立っていた。
「田口さん。大丈夫でしょうか」
澤井から離れ、保住は根津を見る。約束の書類だろう。田口の周囲を調べてくれたはずだ。
「できたのだな」
「ええ。ご期待に添える内容かどうかわかりませんが」
目元を拭い、保住は茶封筒を受け取った。それから中をそうそうに確認する。
「保住。それは」
「田口の周囲を洗ってもらいました。——なるほど。なかなか興味深いですね」
「それでわかりますか」
根津の不安げな顔を見て、保住はうなずく。それから澤井を見た。
「澤井さん。この件はおれが落とし前つけます」
「しかし。保住——」
澤井が不満げな声色で名を呼んだ時、天沼が副市長室の電話を受け取った。
「安斎からでした。左腕と左足の骨折だそうです。受傷時のショックで一時意識がなかったようですが、病院に到着してからは意識が戻ったようです。手術が必要になるかもしれませんが、命には別条はないようです」
「頑丈な男だ。二階から転落して骨盤も折らないとはな。幸運だ」
澤井は苦笑した。
「しばし病院でおとなしくしてもらうのがいいだろう。そのほうが安全だ。家族には——」
「おれから連絡します」
保住の言葉に澤井は天沼を見る。
「労災の手続きでもしておけ。と言いたいところだが。さすがにここまでくると警察に連絡しないわけにはいくまい」
「承知しました」
天沼はうなずくと、電話を持ち上げた。それを確認してから、澤井は保住を見た。
「お前は自分自身で落とし前をつけたいのかも知れないが。まだ動くな」
「しかし」
「ちゃんとしてやるから。いいな」
もう一度強く念を押され、保住はしぶしぶと頷くしかない。しかし内心は違った。復讐心で支配されている心はそうやすやすと澤井の指示に従うわけがない。燃えるような気持ちを押し殺し、何事もないかのように保住は頭を下げた。
「わかりました。そのようにいたしましょう」
——澤井はおれが好き勝手なことをすることを承知しているだろう。まあいい。ともかくやり過ごすのだ。
廊下に出た保住を待っていたのは、懐かしいメンバーだった。
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