第12話 誕生日の悲劇
時間の制約は、田口と保住の久しぶりの逢瀬を特別なものにしてくれた。事務所に戻ると、安齋だけが一人、意味深にニヤニヤとしていて、なんとなくバツが悪い気持ちになったが、開き直るしかなかった。
「戻ってきた時の室長。恥ずかしそうだったな。可愛いではないか。礼はいらないぞ。いいものを見せてもらった」
安齋に弱みを握られたような感覚に陥りながらも、田口は束の間の逢瀬を胸に、先の見えないこの状況をやり過ごすしかないと腹を括っていた。
週明け。九月議会が始まった。田口の件は何事もなかったかのように成りを潜めていた。今回の議会では、市制100周年記念事業に関する質疑も予定されており、保住も駆り出される。もちろん管理職はみな、そちらにかかりっきりだ。
議会での質疑は澤井が担当だ。彼直々の案件だからだ。だがしかし、細かいものになると当然のように推進室の内線が鳴る。議会控室にいる保住からの指示で資料を持参するように指示が入るのだ。
「おれが持っていく」
田口が腰を上げると、安齋に止められた。
「おれが行くからいい。お前は待機。大人しくしていろ」
彼は田口から書類を奪うように持ち上げると、さっさと廊下に姿を消した。それを見送って大堀は苦笑した。
「いやあ、安齋の過保護も板についてきたよね。安齋との生活はどうなの?」
「どうって——窮屈だろう。早く元に戻りたい」
「室長とのラブラブ・ライフにね~」
大堀はからかうつもりらしいが、田口はふと倉庫での情事を思い出し顔を熱くした。それを見て、大堀は逆に困った顔をするばかりだ。
「そんなに恥ずかしがられても——。おれのほうが恥ずかしいんですけど」
「す、すまない」
安齋の機転のおかげで、少し精神的に落ち着いた。あの時は「そんな常識外れなこと、できるわけがない」と否定していたはずなのに。結局は安齋の思惑通りだ。密やかに時間的制約の中での行為は今までになく感極まりないものだったのだ。
顔の火照りが収まる様子がない。田口は深呼吸をしてパソコンを見つめていると、「保住室長はいらっしゃいますか」と男が顔を出した。はったと顔を上げて相手を確認してから、田口は不安を覚えた。そこにいたのは人事課の根津。澤井から保住の周囲を嗅ぎまわっていると聞いていた人物が、保住を訪ねてきたのだ。警戒しないわけにはいかない。
「今は議会対応中で不在です」
田口の解答に、彼は持っていた茶封筒をじっと見てから「では出直します」と言った。
「お渡しするものでしたら、お預かりいたしましょうか」
彼は田口と書類を何度か往復して見てから首を横に振った。
「いいえ。ご説明申しあげたいこともあります。出直しましょう。例の件、調べがつきましたとお伝えしていただけますか」
「承知しました」
——例の件ってなんだ?
根津はぺこりと頭を下げて立ち去った。その間に後ろで大堀が内線対応をしている。
「田口。また室長から連絡だよ。書類の追加だって。おれ行くよ」
「いや。今度はおれが持っていく」
「だめだめ——」
大堀は周囲を伺うように少し思案してから、「おれも行く」と言った。
「一人で留守番はやだもん。おれも行く」
「大堀」
「いいじゃん。別に」
歩き出す田口の横を大堀はくっついて歩いた。
「お前の甘えん坊にも困ったもんだな」
「悪かったね~」
「まったくいいキャラだ」
「そっかな? そんな褒められたのは初めてだけどね。って、あれ? 今日って田口の誕生日?」
「それ言うなよ。誕生日っていいことがないんだ。朝から自覚しないようにしているんだ」
——そう、今日はおれの誕生日だ。
いつもいいことがない。
「誕生日にいいことがないってどういうこと?」
「怪我したり、ケーキつぶれたり、風邪ひいたりね。いろいろ」
「誕生日って特別視しちゃうから、余計にそう思うんじゃない? 少しの嫌なことでも大きく捉えちゃうじゃない」
「そうかもしれないな」
二人は議会場のある二階に向かう。議会がある日はあちこち騒々しい。傍聴に来る市民も多く、日ごろ出入りしないような人が多く見受けられた。
「ねえ、せっかくだしさ。誕生会やろうよ。どうせお祝いしてもらうような年でもなくて淋しいものじゃない。おれも恋人なんていないし。安齋だってどうなんだか——あ、いや。安齋はいるんだっけ」
「そうだな。まあ、そんな時間があればいいけどな」
「いいじゃない。お昼ご飯の時にでもおいしいの食べようよ。ここのみんなは優しいもん」
大堀は気恥ずかしそうに笑みを見せた。
——おれも同感だ。
田口も釣られて笑みを浮かべた。
「この前ね。ほら、おれいじめられていたって言ったじゃん。その先輩にばったり会っちゃってね」
「大丈夫だったのか」
「うん。あのね。室長がかばってくれた。おれ嬉しかった。やっぱりここにきて良かった。おれ」
「そっか。おれもだ」
四月から色々と重なってきたが、やはり良かったのだ。田口はそう思った。二階から降りてくる人を縫うように階段を進み、二階のフロアに出る。もう少しで保住の元に——そう思った瞬間。
「田口!?」
大堀の鋭い叫びにはっとした。気が付いた時にはすでに遅しとはこのことか?
自分は。
足が地についていなかった。
——これは……。
浮遊感の中、伸ばした手が大堀の手を掴もうとするが届かない。ほんの数秒の間の出来事なのに。それはまるで映画の演出で景色がゆっくりと動いているかのように見えた。しかしそれも、長くは続かない。躰全体に受けた衝撃と共に、田口の意識は真っ暗な暗闇に包まれた
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