第2話 誤判断



「保住室長……。田口なんですか。負傷したのは?」


 教育委員会文化課振興係長の渡辺は、心配気に駆け寄ってきた。その後ろには前職で一緒に机を並べていた十文字と谷口がいた。それから、総務係長の篠崎と振興課長の野原だった。


「お騒がしております」


「落ちたのは田口なんですか」


「ええ」


「あの田口が階段から落ちるなんて。なにかの事故じゃ……」


 共に仕事をしてきた仲間だ。田口がどんなに機敏な男なのかを理解しているのだろう。保住を囲むように立っている文化課の人間たちは「信じられない」と言わんばかりに怪訝そうな表情を浮かべていた。


「田口くんは大丈夫なの」


 篠崎女史は眉間に皺を寄せている。


「骨折です。大丈夫。しばし入院すれば帰ってこられますよ」


「それならいいんだけど。ねえ、課長」


 野原は神妙な顔のまま保住を見据えていた。


「この前の佐々川課長の怪我と関係あるの」


「槇さんからお聞きになっていないのですか」


「槇はなにも。市長選で忙しい。最近顔を合わせていない」


「なるほど」


「槇は、なにも言ってこないけど、なにかが始まっていることはわかる。一人でやっていないで、みんなに言わないと」


 表情は変わらないものの、野原の瞳の色は濃い。心配してくれているのだろうということは容易に想像がついた。


 ——なんだか野原課長に心配されるなんて。


 保住は苦笑した。今までのとげとげした気持ちが和らいだ。


「そうですよ。おれたちにできることがあるなら、なんでも言ってくださいよ」


「室長」


「そうです」


 渡辺、谷口、十文字も真剣そのものだ。


 ——話をしなければならないときに、話さないという選択肢が誤りだったということだ。もし自分の身が危ないと自覚していたら、銀太はもっと慎重に行動できたかも知れないのだ。これは銀太を心配するが故に招いた誤判断だ。


 保住はそう自覚してから、目の前にいる文化課職員に頭を下げた。


「ありがとうございます。必ずお話しますから。その時はどうぞよろしくお願いいたします」


 事の詳細を話さない保住に対し、渡辺は不満そうな顔色を浮かべたが、野原は「そうして」とだけ呟くと、彼の肩を引いた。「これ以上は踏み込むな」という意味だと悟ったのか。


「一人で頑張り過ぎないでくださいね。保住室長」


 渡辺はそう言い残して、野原たちと一緒に部署に戻って行った。保住はそれを見送ってから階段の上に立ち尽くした。階段は二十段以上もある。直線上に伸びているそれはてっぺんから見下ろすと随分と高さがあるように思われた。


 ——ここを銀太が落ちたのだ。


「怖かっただろうに」


 根津から預かった書類を握りしめて、保住は部署に戻った。そこには不安そうに一人で泣いている大堀がいた。


 ——そうだ。おれの部下は銀太だけではないのだ。


 大堀は「そばにいて助けられなかった」という自責の念に駆られているらしかった。保住は笑顔を見せ、大堀の隣に座った。



***



 夕方。定時を前にして保住は帰り支度をした。病院に付き添っている安齋と交代するためだ。大堀は一足先に帰らせた。田口だけがターゲットであると言う確信がない以上、一人で置いておくのは不安だからだ。彼は納得しない顔をしていたが仕方がない。


 誰もいない自分の城を眺めていると、複雑な思いがわくものだ。なぜこんなことになったのかと言う戸惑い。部下たちを守ることができなかった不甲斐のなさ。犯人に対する怒り――。

 荷物を持ち上げてから踵を返すと、人事課の根津がやってきた。


「田口さんの容体を確認してこいと言われました。室長、病院に同行いたします」


 ——誰の指示だ。久留飛くるびか。


 保住は根津に一瞥をくれる。この男はいつも保住の前に姿を現す。ここまで来ると、わざとなのではないかと思った。


 ——この男の背後にはなにがある。


「お前はなぜ……」


 そう言いかけて歩き出そうとすると、ふと観光課職員と鉢合わせになった。


「おおそうだ」


 保住は思い立ったかのようにその職員に声をかけた。


「えっと。毎朝、廊下の掃除をしてくれているそうだな。感心だ。うちの職員は知っていてもやろうともしない。少しは見習ってもらいたいものだ。えっと——」


「松岡です」


 男は保住と同じくらいの年代だろうか。観光課の職員で、以前大堀が話をしていた男だ。毎朝、自主的にフロアの掃除をしているという職員の鑑みたいな男だ。以前から保住は彼に尋ねてみたいことがあったのだ。


「実は聞きたいことがあった。廊下の掃除をしてくれているということだが、その時に変わったことはなかっただろうか」


「変わったこと、と言いますと」


「例えば、見慣れない職員を目撃したとか、いつもと雰囲気が違っていたとか。なんでもいいのだ。——そうだな。佐々川課長が怪我をした前後に、だ」


 松岡は「ああ」と頷く。


「佐々川課長の怪我、酷そうですよね。刃物ですっぱり切った、だなんて。考えただけでもぞっとします」


「そうだな」


「毎朝、廊下の清掃をしておりますが、そうですね。変わった事と言えば……」


 男はチラリと根津を見てから首を横に振った。


「すみません。特に思い当たりませんね」


「そうか。ならいい。推進室のことで思いついたことがあったら知らせて欲しい」


 松岡と別れて職員玄関を目指す間、根津は後ろを気にかけていた。


「あの松岡と言う男。どこかで見かけたような」


 松岡がなぜ根津を気にしていたのか? 

 なぜ松岡が根津を気にしていたのか?


 保住は黙って思考を巡らせていた。



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