第11話 秘事
会議で疲弊していた。もう帰りたい。そう思っていたのに。部署に戻る途中、田口に出会ったのが運の尽きだったと思った。
強引に腕を引かれて連れていかれたところは、馴染みのない場所だった。
田口は職員玄関を抜ける時に、自分と保住のIDをかざして退勤扱いの処理をした。
一体、彼がなにをしようとしているのか予測もつかないことだった。
「すみません、すみません」
田口は呪文のように「すみません」と繰り返しているばかり。
「おい。なにがすみませんなのか理由を言え」
庁舎の裏手にある倉庫群の一角に来ると、田口は迷っているようで、しばし躊躇してから、覚束ない手つきで鍵を開けようとしている様子だ。
そこは古びたプレハブの倉庫だ。曇りガラスがはめられているところに、錆びた鉄棒が交錯するようにかかっていた。
「銀太。お前——」
鍵は古びているのだろうか。田口はもたもたとしばしの時間をかけてから鍵を開け、扉を横に引いた。建付けの悪そうな扉ががたがたと大きく左右に揺れて開かれる。
高くなっているプレハブの入り口には、踏み台替わりのブロックな二つ並んで置いてあった。それらに視線を向けていると、腕を強引に引っ張られて中に入れられた。
中はそう暗くはなかった。倉庫外に配置されている常夜灯の灯りで、様子を見て取ることができたのだった。
中は三方に鼠色の事務棚が置かれ、古びた書類がぎっしりと積み上げられていた。
中心には使い古しの事務机。どこかの会議室で使用しなくなったものだろう。パイプ椅子も随分と錆びていた。たばこの匂いと、かび臭い匂いが交じり合って鼻がむずむずとした。
「安斎が」
「え?」
田口は中に入ると、内側からそこに鍵をかけた。
「安斎が貸してくれたんです」
——安齋がなんだって? 銀太はなにを言っている?
混乱していて、いつも以上に自分の体がどうなっているかわからない。目の前がぐらりと回ったかと思うと、暗い天井が見えてから、それから田口の青白い顔が見えた。暗闇の中、曇りガラス越しに漏れてくる光のせいなのだろうか。彼の顔は異様に白く見えたのだった。
「時間がありません。大人しくしてください」
「な、なにを勝手なことを——!」
田口は保住の頬を両手で包んだかと思うと、そっと引き寄せられて唇が重なった。
——こんなところで……。
頭の中では否定しているくせに、久しぶりの田口の味は嫌いではない。彼は遠慮しているのだろうか。啄むように触れてくるその唇は逆に心がざわついた。
田口の手首を握り引き寄せる。彼は嬉しそうに唇を噛んできた。
こんな場所で誰がくるかもわからないのに。
——止められない。
軽いキスでは物足りない。もっと、もっと、と欲望は溢れてくる。田口は夢中になっているようだが、自分も然りだ。もう一週間以上も田口には触れていない。こうして肌を触れ合わせることもしていない。
「あなたと離れていることだけが辛い。他は我慢できるのですが」
「すまない——銀太」
キスの合間の謝罪はなんの意味もなさないはずだ。それは保住のただの自己満足だ。
「いい匂いがします。保住さんの匂いだ。おひさまのいい匂い——」
「銀太」
濡れた唇に視線を落とし、保住は何度も彼の名を呟いた。
「いいんです。でも。今日だけはお願いします」
息が上がって、目尻を上気させている田口の視線は情欲に駆られているのがよくわかった。保住は黙って彼の目元を指先でなぞった。田口は気持ち良さげに目を瞑る。
——怖いなんて思うのは、生まれて初めてかも知れないな。
田口の熱を感じていると、そんな気持ちになった。
——銀太を失いたくない。
ワイシャツの隙間から入り込んでくる田口の指先は熱い。触れられた場所から伝わる思いを受け取るのも束の間。欲に支配されてしまうと、お互いに願うことは一つしかないのだった。
焦燥感に駆られた余裕のない逢瀬だった。それは不安定で、とても危うい、今の気持ちそのものである気がして、保住は余計に田口に縋り付いていた。
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