第10話 悪魔の誘惑
夕方。定時を知らせる鐘が鳴った。ポットを片付けようと席を立つと、安齋が布巾を持って給湯室にまでくっついてきた。
片時も離れない安齋がそろそろ窮屈で堪らないた田口だ。保住からそうしろと言われていることを頭では理解しているのだが、心がついていかないのだ。
ため息を吐きながらポットに水を入れ、中を
「なんだ」
その鍵にはピンクの古ぼけたプレートがくっついていて、「西の3」とマジックで書かれていた。
「裏の倉庫。わかるな」
「倉庫? ——ああ。保存書類や備品を置いてあるプレハブ倉庫だろう?」
梅沢市役所は昭和初期に建て替えられてから、そのままである。年数を重ねるごとに、増えていく行政業務のおかげで、建物内は手狭だ。毎年のように積みあがっていく公文書は保存期間が規定されていて、容易に廃棄するわけにはいかない。そこで、敷地内の開いている場所にプレハブ小屋を増築し、書類や備品を保管しているのだ。安齋が言っているのはその倉庫の一つだろうと田口は理解した。
「しかしなぜ。お前がこれを」
「庁内は禁煙だろう。煙草を吸う場所を探していたんだよ。そうしたら警備員から『ここは何年も誰も鍵を借りに来ない場所だ』と教えてもらったんだ」
「敷地外に吸いに行けばいいだろう」
「そんな面倒は御免だからな」
本庁に異動になって数か月だというのに、警備員と懇意になり、倉庫の鍵までせしめるとは。
「ゴミみたいなどうでもいいものが収められている倉庫の鍵だ。朝借りて帰りに返す」
「お前の貸し切り倉庫か」
長く勤務しているのに、田口にはそういう考えはなかった。いや。むしろそんなことを思いつく安齋の思考に驚いた。要領がいい男なのだろう。
「合鍵はないそうだ。これを所持して中に入れば誰かが外から開錠することはない。定時も過ぎた。今の時間、倉庫に足を運ぶ変わり者はそうそういない。田口。その意味がわかるか?」
安齋の瞳を覗き込み、彼の真意を図ろうと思案する。しかし容易にその意図を汲むのは難しい。田口は眉間にしわを寄せ、それから少し小首をかしげた。そのリアクションを見て、安齋は少々苛立ったように声を押し殺して言った。
「お前、本当にバカだな。密室になるということだろう? ——室長は定時まで会議だ。そろそろ帰ってくる。一時間待っていてやる。さっさとすませろ」
田口は安齋の言葉にポットを落としそうになって、慌てて持ち直す。
「あ、安齋。それって——」
「発情期に相手がいない獣みたいな鬱蒼とした顔をしているぞ。お前」
「お、お前な! 職場だぞ」
「退勤扱いにすればいい。それ以降はプライベートだ」
「だからって」
狼狽えている田口の反応にしびれを切らしたのか。安齋は鍵を握りなおす。
「あ、そっか。ならいい。貸すのはやめる」
「安斎」
「欲しいのだろう? 素直になれ。六時半には鍵を返す約束をしている。さっさとしろ」
安齋は田口の手からポットを奪い取ると、鍵を押し付けて給湯室を出て行った。
田口は両手の中に残った鍵を見下ろす。動悸がした。
——いいのだろうか。こんなところで? 職場だぞ。いくら定時以降だからって……。
押し問答を繰り広げている自分は、傍からみたらおかしい奴に見えるのかも知れない。しかし、そんなことまで考えが及ぶわけでもなく——。と、給湯室の横を保住が通りかかった。会議で疲弊しているようだ。首の後ろに手を添えて覚束ない足取りだった。
露わになっている彼の首の後ろに視線をやると、心臓が大きく一鳴りした。
——ダメだ。そんなの。でも……。
自分だけが独り占めできる彼の素肌の感触を、味を思い出すと、居ても経ってもいられなくなった。
田口は鍵を握りしめて、後ろから保住の腕を握った。彼は弾かれたように振り返った。
「なんだ。驚いた。お前か」
「すみません」
「帰るのか? 片付いたのか」
疲労で光のない瞳は、なんだか濡れているように見える。あのアパートでの別れの時、彼は泣いていたのではないかとずっと考えていた。保住が、自分のために涙を流してくれるなんて——。田口にとったらそれだけで歓喜以外のなにものでもないのだが。
「いえ。あの。すみません。えっと、はい」
田口の煮え切らない返答に、保住は笑みを見せた。
「お前さ。それってどっちなの?」
艶やかな笑みは媚薬みたいに田口の理性の
——無理だ。
「すみません。保住さん」
「銀太? ——お前、なんなんだよ?」
「すみません、すみません」
田口は後ろで騒いでいる保住を無視してずんずんと一目散に歩いて行った。
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