第6話 貞操の危機



「さすがにおれでもイラつくぞ。安齋。お前、絶対に企画を立ち上げる気がないだろう?」


 田口はイラついていた。安齋の家に追いやられてから数日が経過したのだ。さすがに苛立ちも募るものだ。


 しかし、安齋は平然とした顔をして田口を見返した。


「おれはいたって真面目だろう? これ以上、どこを真面目にやれというんだ。お前は」


「嘘だ。のらりくらりをして。核心の部分に行きつきそうになると、するりと交わす。お前らしくもない」


「心外だな。おれらしさをお前に語られるなんて不本意だぞ。これがおれだ。それ以外になにがある。異議があるから反対しているだけだろう? お前がもっといい案をひねり出さないからだ。お前のほうこそやる気あるのか? 保住室長に追い出されたからって、腑抜けにもほどがあるぞ」


 ——そうじゃない。


「お前が話をはぐらかすからだ! おれは正常だ。人を病気扱いするな」


 安齋の態度は煮え切らない。なにかを知っているはずなのに、しらを切るのだ。田口にはわかる。安齋という男の人となりを理解してきた今日この頃だからだ。


 ——安齋はなにかを隠している。


「おい。一体なんなんだ。お前は知っているのだろう? でなければ、こんなに仕事を進めないわけがない。もしかして、おれをお前の家に引き留めておきたい理由があるというのか?」


 田口の問いに安齋は笑いだす。


「自意識過剰じゃないのか? なぜおれがお前を我が家に引き留める必要がある。正直に言ったら、そうそうに出て行ってもらいたいものだ」


「じゃあ、そうさせてもらうぞ」


 田口は売り言葉に買い言葉とばかりに、ソファから腰を上げた。すると安齋の長い腕が伸びてきて、田口の腕をつかんだかと思うと、引きずり戻された。安齋よりも田口のほうが体格的には勝っているはずなのに、安齋のその力は想像以上に強かった。田口は怯んでしまったようだ。その隙が勝負の分かれ道。


 気が付くとソファに押し倒されていて、安齋が田口の上にいた。


「おれはお前にはそう興味もないがな。これ以上出て行くというのであれば、それ相応の嫌がらせをしてやってもいいぞ」


「お前——」


「おれの性癖は知っているのだろう? お前が欲求不満なのはわかるが、おれも同様だ。お前相手に欲情なんてしないと思ったが、こうも枯渇した状況が続くと、相手は誰でもいいのかも知れないな。おれの相手でもするか。田口?」


「安斎——っ!」


「いつもは室長をいいように扱っているのだろう? たまにはやられる側の気持ちでも味わったらどうだ?」


「お前!」


 ——おれは男が好きなんじゃない! 保住さんだからいいんだ。


 必死の抵抗に、安齋はふと笑みを浮かべたかと思うと体をずらした。


「お前、必死だな」


「からかうな!」


「お前があまりにも興奮しているからな。おれだって願い下げだ。お前は好みではない。そんなガタイのいい大型犬を犯したってなんの面白味もない」


 安齋との騒動で少しは頭が冷えたというところだろう。田口は大きくため息を吐いてから、ソファに座りなおした。


「お前の気持ちはわかる。お前がいないおかげで、室長の身なりは最悪だ」


 床に座った安齋は乱れた髪型を直す。


「心配なんだ。ちゃんと食べているだろうか。風呂にも入っているのだろうか。夜も寝ていないかも。くまもひどいし、ワイシャツもよれよれだし。寝ぐせもひどいし。アイロンがけ、始めたら火傷するに違いない!」


 わなわなと心の声を口にした田口を見て、安齋は吹き出した。


「本当に過保護だな。お前は。正直言って、本当にお前には出て行って欲しいんだよ。迷惑なんだ。恋人でもあるまいし。お前もストレスかも知れないが、おれだって一人の時間が持てずに限界に来ているんだからな。いいか。さっさと仕事をするんだ。田口」


「わかっている!」


 ——もう限界だ。明日保住さんにお願いして、こんな生活は勘弁してもらうようにお願いしよう。


 田口はイライラとしている気持ちを持て余していた。



***



「そういうつもりじゃなかった。そういうつもりじゃなかった。そういうつもりじゃなかった——」


 男は息を荒くして呟いていた。暗い小さいミーティング室には、自分ともう一人の男しかいない。独り言のようにぶつぶつと呟いていると、肩に温かいものが触れた。それはもう一人の男の手であるということはすぐに認識できた。


「そう嘆くものではないですよ。大丈夫。こんなことは想定内のことなのだから」


「想定、内?」


「そうだ。キミの仕掛けた罠は、確実性のないものだった」


「そんなだって……あの男のデスクにちゃんとしかけたんですから」


「世の中の事象には、絶対という確かな保証はないのだよ。そう焦ることはない。これからいくらでも機会はあるものですヨ」


「ですが、警戒されています」


 静かで落ち着いた声に、焦燥感にかられた心が落ち着いた。


「それだって、想定内のことです」


「じゃあ、どうしたら——」


「大丈夫。どんなことにも隙というものはできるものです。そう焦ることはないです。きっと活路は見いだせます」


「——あなたはどうして、そんなにも親身になってくれるんですか」


「それはキミが善良なる職員だからですヨ。僕はねえ、そういう職員を見ていると、放っておけないんです。世の中は不公平で満ち満ちている。真面目に業務をこなす職員ほど、それを認められずにいるものだ。弁の立つ人間だけが取り立てられるなんて、そんな話はないでしょう。僕はね、そんな真面目な職員の強い味方なんです」


 男の言葉に心底安堵した。


 ——大丈夫だ。自分はまだやれる。あいつが取り立てられて、おれがこんなところにいるなんて、そんな話はないのだ。そうだ。おれはやれる。その地位さえ得られれば、期待以上の成果を出せるのに!


「そうです、そうです。自分で手に入れるのです。さあ、キミの夢を手に入れましょう」





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