第5話 市長選とお菓子
伊東に問われた野原は、ポツリと答えた。
「さあ。おれには関係のない話」
「え? そうなの。幼馴染なのに?」
「だからなに」
首を傾げる野原に返す言葉もないらしい。伊東は口をつぐんだ。野原に相手をされなのが悔しいのか、今度は保住に矛先を向けてきた。
「保住室長はどうなの。澤井さん、どうするって?」
「知りませんよ。そんなの。本人に直接お尋ねになったらよいではないですか」
「秘蔵っ子なのに?」
——そういうコネクションみたいなものを引き合いに出すなんて、性格が悪すぎる。
保住はむっとしたが、廣木が「そうだよね」とその話題に乗った。
「澤井さんが安田と言えば、みんなが安田を推す。対抗馬と言えばそっちだ。それだけ澤井さんの力は強い」
「しかし今回ばかりは、澤井さんは安田を見捨てるっていう噂のほうが強いよねえ。安田市長も終わりかも知れないね。どうやら、安田さんには見切りをつけて、もっと自分のいいように動かせる対抗馬を考えている——なんて噂もあるくらいだもんね。例えば、槇さんとかね」
佐々川は首を竦めた。
澤井という男の影響力は計り知れないということだ。公務員は選挙活動をしてはいけないことになっている。澤井は表立って誰を支持することすら口にはしないだろう。だが周囲は、彼の言葉の端々から彼の意思をくみ取って、彼のいいように行動する。それがこの世界でもある。澤井はそれを重々承知していて、そういう振る舞いをしているということも保住は知っている。
——澤井は槙との距離が近い。やはり槙を立てて自分のいいように扱うつもりなのだろうか。
槇にとって大事な野原に手を出そうとしたのだ。彼が許すはずもない。久留飛は少し見誤っているのかも知れないと保住は思った。
「タイムリミットですね。今日はこれで解散です。次月の日時は追って連絡いたします」
高梨の声に、一同は会議室を出て行く。廊下に出ると、ふと野原と視線があった。
「野原課長」
野原は、ポケットにごそごそと手を入れた。
「いや。お菓子、いらないですよ」
「お菓子、じゃない?」
彼はきょとんとして鳶色の瞳を瞬きさせた。「じゃあ、なんの用?」という瞳の色。保住はそっと野原に耳打ちした。
「槙さん。大丈夫なんでしょうか。市長選」
——安田の再選が絶望的であるならば、槙が立つ。
保住はそう思ったからだ。野原は何度か瞬きをしたが、ふと笑みを見せた。
「大丈夫。なあに。心配してくれるの」
いつもであれば否定をするところだが、田口とのこともあって心が弱くなっているのかも知れない。保住は「そうですね」と素直に肯定の言葉を吐いた。
「あなた方とはまるっきり無関係ではありません。槇さんは好きではありませんけど、こんなおれでも心配くらいするものです」
保住の言葉を聞いていた野原は口元を緩める。
「そう。槇には伝えておく。——でも大丈夫」
「そうですか。野原課長がそう言い切るのであれば大丈夫そうですね」
ふふっと笑みを浮かべると、すぐそこに高梨が立っているのに気が付いた。
「なになに? 飲み会の相談ですか」
「なんで飲み会になるんだよ」
「だって~。野原課長。おれね、
「おい。そんな話は聞いていない」
勝手に同期会。保住はあきれるが、野原は真面目な顔のまま高梨を見上げた。
「同期会に同期じゃないものが参加するのは、同期会とは言えない」
「あれ? そっかな」
あははと笑う高梨に一瞥をくれてから野原は立ち去った。保住も大堀に「帰るぞ」と声をかけてからさっさと歩き出した。後ろから高梨の声が響いてくるが無視だ。相手をしているだけ時間の無駄。そう思ったからだ。
「いや~。面白いですね。課長会議って」
大堀はにやにやとしながら保住の隣を歩く。
「無駄な時間が多い。だが通らねばならない道だ」
「ですね。——それにしても野原課長って面白キャラじゃないですか? あれ、なんなんです? 他の課長たちよりも年下ですよね? みんな野原課長のペースに巻き込まれっぱなしじゃないですか」
「ああ、あの人ね。おれも苦手だ」
「室長に苦手ってあるんですか?」
「おれだって好きや嫌いはある。高梨は嫌いだ。くだらないからな」
「見ていてわかります」
大堀は「ふふ」と笑った。
「それにしても『槇』って人は市長の私設秘書の槇さんのことですよね? あのお金持ちそうなぼんぼんっぽい人。あの人と野原課長が幼馴染って意外ですね。槇さんは市長選に出るのでしょうか? でもな~。ちょっと市長って貫禄にはまだ早くないですか? 確かに日本全国を見てみれば、若い首長はたくさん出ていますけどね。やっぱり心元ないんだよな~」
「お前も無駄話をしているな。市長選なんておれたちには関係ない。目の前の仕事をするんだ」
「は~い」
保住は大堀を連れて部署に戻る。観光課の職員たちは忙しそうに動き回っている。賑やかな本庁舎内は、いつもと変わりがない。土曜日の事件がまるで嘘のように感じられた。
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