第4話 出張命




「僕は澤井さんの仕事のスタイル、嫌いではありませんよ。多少強引なことも必要だし、多くを救うために少数を切るというのも致し方ないことだと理解している。そして、あなたはその少数を限りなく小さくしようと努力しているのも理解している。『鬼の澤井』なんてよく言ったものだ。あなたに叩き潰される輩の逆恨みから出たネーミングだ」


 水野谷の言葉に澤井は苦笑した。


「気色の悪いことを言うものだ。そして、そこまで理解されているなんて気味が悪いものだな。おれのなにがわかる? おれのことは誰も理解しえない。唯一の存在を除いてな」


「それは、保住さん——ということでしょうか」


 吉岡は探るように尋ねてくるが、澤井は答えるつもりはない。押し黙って返すと、吉岡はその意図を汲んだ様で話題を戻した。


「澤井さんは、今回は安田推しではない、と伺っております。私設秘書の槇を立てるおつもりですか? それとも対抗馬に鞍替えでしょうか? その辺りはいかがなものか?」


 吉岡の問いに澤井は笑う。


「的外れなことを問うなよ。時間の無駄だ」


「そんなことは重々承知の上ですよ。しかしあなたが誰に就くかで選挙戦は左右されるものです」


「おれは中立だぞ。安田市長の対抗馬も噂の域を出ない」


「またそんな。澤井さんともあろうお人が、一般市民みたいなことをおっしゃるんですね」


 澤井はあくまで知らぬを決め込むことにした。相手の出方がわからないうちに手の内を見せるなんて問題外だからだ。吉岡は重い口を開いた。


「農協の動きが怪しいのですよ。我々は安田市長の続投を望んでいるのです。どうか澤井さん。ご協力願えませんかね」


「ほほう。農協になにができるというのだ」


「安田市長が第一次産業系に疎いことはみなが知っていることですよね。市政にへきへきとした農協青年部はすでに国とのパイプを独自に確立しつつある。先月、農水省広報誌の農業女子特集に梅沢市の女性が選ばれていることはご存じですよね。あれは農協青年部長がうまくやり込んだ例です」


 安田は子育てや福祉、観光に関する事業は好きだが、農作物についての知識が薄い。それなりの施策を展開しているものの、関係者からはもっと充実した施策の展開をせっつかれているところだ。果樹産業が盛んな梅沢市で、農業関係者の票が対抗馬に流れるということは、かなりの痛手になることであろうと吉岡は言っているのだ。

 澤井は苦笑した。


「そんなもの、勝手にやらせておけばいいだろう? 広報誌に取り上げられたからと言って、なんの意味がある。選挙には関係ない」


「今回の対抗馬は農水省OBです。さすがの安田市長も崖っぷちだ」


「澤井さん。本当によいのですか? 安田市長はあなたを信頼しているのですぞ」


 代わる代わる吉岡と水野谷がまくしたてる様を見ていると、彼らはなにを焦っているのだろうか? とおかしい気持ちになる。正直——澤井の腹の内は決まっているのだ。そう。


「だからなんだ。われわれは首長くびちょうが代わってもそつなく業務をこなす。それが使命だ。誰が首長になろうとも関係がないな」


 澤井はそう言い切ると、腰を上げた。


「そんなくだらない話をしに来たのか? 時間の無駄。おれは仕事が溜まっているのだ」


「澤井さん」


「お前たちの意向はよく理解した。心に留めておこう」


 澤井は不本意そうな吉岡と水野谷を追い出し、それから自分の席に座った。


「市長選な」


 ——吉岡はバカではないが、まだまだ物事を知らなすぎるというものだ。


 澤井は先の先まで見越して、綿密に立てられているシナリオをたどっているだけだ。正直に言えば、なんの面白味もないことだが、意味のないことではないということも理解している。書類を眺めようとしてから、ふと手を止めた。それから、老眼鏡を外してから、窓際に立った。ガラスに映った室内。そこにいる自分は随分老いたと思った。


「期は熟しつつある。われわれの計画の第一歩だ」


 澤井は胸躍る気持ちを抑えきれずに、思わず口元を緩めた。



***



 澤井から出張命令が下されたのは、それからまもなくしてのことだった。それは突然天沼がもたらした。


「保住室長。澤井副市長からの伝言です。明日、戸沢市とざわし出張に同行せよ——とのことです。詳細はこちらです」


 カウンター越しに渡された一枚の紙を眺めて、保住はため息を吐いた。











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