第9話 得体の知れない男



「こんな休みの日まで出勤をして、人の処分を取り扱うなんて、割に合わない部署だな」


 いつものクセで、つい思っていることが口に出る。こんなことを言われたら、嫌味と捉える人間も多いことだろう。こうして保住は敵を作るのだが、根津ねづは大して気にしていない様子で微笑した。


——と言いましても、おれには直接関係がありません。処分する相手の心中まで察していたら、人事課は務まりませんよ」


「それはそうだが」


「保住さんは、お優しいのですね」


「そうだろうか?」


 自分では人に興味がないと思っていても、そうではないのかも知れない。


 ——そんなことに引っかかる、だなんて。


 案外、自分は繊細なのかも知れないと思ってしまうと笑ってしまった。


 根津の持っていた書類は、職員の懲戒処分に関するものだった。梅沢市役所は職員数が二千人近くいる大所帯だ。年に数人——いや数十人程度は、処分に値するような人間がいるとは聞いている。


「年に何人もの処分決定書類を作成していると、感覚がマヒするのでしょうか。なにも感じることがないのです。いけないことだとは思います。最初は良心の呵責というものがあったような気もしますが、処分の理由を見ると、これは致し方ないことだと思うのです。それに無責任かも知れませんが、処分を下しているのは市長です。おれではありません。おれは決定事項を書類に起こしているだけですので」


 根津の言葉に、保住は頷く。


「良心の呵責を覚える必要はなかろう。あなたの言っていることは正しい。最終決定は市長だ。それを担当職員として文書にしているに過ぎない。それに処分されるには、それ相応の理由がある。市役所へ、市民への背信行為を行った者は、ここにいる資格はない」


「保住さん。おわかりいただけますか」


「当事者ではないので同じ思いは共有しかねるが、理解はできる。まあ、おれは処分させる側だ。こんな素行の悪い職員は処分されても致し方ないのだが……そこは緩いようだな」


 クールビズとは言え、ワイシャツの袖を乱暴にだらしなくまくり上げ、寝ぐせではねている頭。確かに保住は、素行の悪い職員の鑑みたいな男だろう。


「そうですね。人事的立場から言えば、服装の乱れは心の乱れです。休み明けに庁内一斉に、服装を正すようお知らせをするといたしましょう」


 根津は苦笑してから、自分の頭を指さした。


「そこも」


「おお、こんなところが跳ねていたのか」


 保住は慌てて自分の頭を抑えた。いつもの如く、寝ぐせが残っているようだった。


「鏡、ご覧になっていますか」


「いや。朝起きてから、一度も拝んでいないな。そうだな。今日のおれは、どんな顔をしているのだろうか」


「まあ、悪い顔はしていませんけど。寝ぐせはひどいと思いますよ」


「そうか。鏡を確認しよう」


 ぶつかって書類を拾い上げた——という些細な出会いであるのに、ここまで長話になるとは思わなかった。そこに荷物を積み終えた田口が顔を出した。


「室長、やっと見つけた。荷物積み終わりましたよ。後の指示をお願いします」


「あ、ああ。そうか」


 保住は慌てて田口に視線を向ける。根津はにこっと笑顔を見せてから会釈をした。


「それでは。保住室長。またお会いできること、期待しております」


「おれを処分したいということか」


「まあ、そうならないように。お気をつけください」


 大概の人間の本質は、見ればわかるものだ。隠そうとする意思がなければ、素直にそれがにじみ出てくるからだ。だが——は気味が悪い。自分を偽っている人間は、表面上は取り繕っているのかも知れないが、一種独特な違和感を生むものだ。


 ——根津という男。得体が知れない。気味が悪い男だ。


「保住さん?」


 その場に立ち尽くしている保住の元にやってきた田口は、彼の視線の先——根津の後ろ姿に視線をやった。


「お知り合いですか」


「い、いや。ここで鉢合わせになって。少し立ち話をしただけだ」


「そうですか。それにしては、相手の方。随分、親しげでしたね」


「おれは人事には知り合いはいない」


 不審そうに首を傾げながら歩き出す保住の後ろをくっついていく田口が「人事?」と声を上げた。


「知り合いか?」


「いえ。お名前、お聞きになったのですか」


「根津と言ったかな?」


「根津——ですか」


 田口はふと表情を翳らせた。保住は立ち止まり、視線を上げる。


「やはり知っているのではないか?」


 今度は田口に対して不審げな視線を向ける。そもそも隠し事ができないような男だ。彼は慌てた様子で首を横に振るが、なにかを隠しているということは一目瞭然だった。


「い、いえ。知りませんよ。同期だったような気がしたので。でも、違いました。勘違いです」


「本当か?」


「本当ですよ。嫌だな。保住さん……」


 ——まあいい。なにか隠しているようだが、突いても吐くことはなかろう。いずれ聞き出してやる。


「……ならいいが」


 保住のあきらめるような言葉に、田口は心底ほっとしたような安堵のため息を吐く。追及の手が緩んで心底ほっとしているというところなのだろう。田口が何事かを隠しているのは事実だと確信した。


「それよりも、なんだか緊張しますね。今晩のことです」


「大丈夫だ。心配はいらない。おとなしくしている。迷惑はかけん」


「そうではなくて……その。だって。旅館に泊まるだなんて。初めてじゃないですか」


 ——なにを言っている?


 保住は目を瞬かせて田口を見上げた。彼は嬉しそうに目元を赤らめてもごもごと言葉を並べたてた。


「保住さんと初めてのお泊りですよ。こんな嬉しいことってないじゃないですか。簡易ベッドなんていりませんって言おうかと思いましたけど、世間の常識からしたら、そんなこと不審がられます。——しかし……ああ、楽しみです。いつもとは違うシチュエーションってそそられます。家族のことはほどほどにしておきますね。保住さんの浴衣姿が見られるなんて……。おれ、もう想像しただけで——」


「ななな……」


「実家に泊まっていただいた時、母親に着せられていた寝間着も素敵でした。ああ、そうか。毎晩、あれを着てもらえるように準備すればいいのか」


 田口の妄想は止まらないようだ。もうすっかりと一人の世界に入っている。保住は田口の背中を押す。


「し、知らない! このすけべ野郎」


 ——おれまで変な妄想させられるだろうが!


「なにも言っていないのに。そんなに赤くなって怒る保住さんのほうが、結構、卑猥妄想半端ないと思いますけど」


 田口は懲りないようだ。にやにやとしながら保住の後ろをくっついて追いかけてきた。


「うるさい! やはりおれは、留守番をしている」


「そんなこと言わないでくださいよ」


「うるさい」


 もう落ち着かないこと極まりない。明日を終えるまで安寧は得られそうになかった。



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