第5話 田口家、現る!


 田口は仕事をしながらも家族のスケジュールを脳内で再生していた。夕方には宿に入るはずだ。あと一時間もすれば「無事に宿に着いたぞ」と連絡が入ることだろう。

 それまでは、なんとなくそわそわして落ち着かないものだと思った。

 そんなことを考えていると、ふと周囲が賑やかな雰囲気になっていることにハッとした。

 無意識に時計を見る。午後三時を回ったところだ。観光課のフロアは、そう市民が押し寄せるような場所でもなく、なにかイベントごとがない限りは静寂に包まれているものである。それなのに——。


 ——なんだ?


 田口は顔を上げる。大堀や安齋も視線を合わせた。保住は気が付いていないのか、書類と睨めっこをしたままだった。


「おお、ここだ、ここだ」


「銀太~! 来てやったわよ」


 騒々しい一団から、まさか自分の名前が飛び出すとは思ってもみなかた田口は、一瞬、背筋が凍る。彼の顔色は一気に青ざめた。


 ——嘘だろう? 職場に来るなんて聞いていない!


 田口の名を呼ぶ一団は、確認する必要もなく彼の客人であるということだ。大堀と安齋は顔を見合わせてから笑みを浮かべる。


 ——穴があったら入りたいとはこのことだ。


「銀太、やっと着いたわよ。前の部署と違うのねえ。間違って二階に行っちゃったわよ。そうしたらよお、スタイルのいいスラっとした兄ちゃんから、あんだが異動したって聞いて」


 ——スタイルのいいスラっとした兄ちゃんって……十文字か。


 まさかこの騒々しい一団で、教育委員会に行ったのではあるまいと突っ込みを入れたくなるものだ。あそこの部署は、ここにもまして市民が出入りする場所ではないからだ。かなり目立ったに違いないと思うと、恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなかった。 後で十文字にからかわれることを思うとため息しか出なかった。


 田口の母親はふくよかな体を揺らして「きゃっきゃ」と手を振ってきた。


「お母さん、そんなに手を振ったら、銀ちゃんが恥ずかしがっているじゃない」


 隣にいた田口の兄、金臣かねおみの妻である真樹がたしなめてくれるのだが、そういうことで黙るような母親ではない。久しぶりの梅沢市役所に大興奮しているということは、はたから見ても明らかだった。


「母さん。あのね。ここは職場だからもっと静かにしてくれないかな……」


 田口は慌ててカウンターに駆け寄る。しかし、一人でみんなを抑えることができるわけがない。


「銀太!」


「銀太~!」


 甥っ子の陽人はると陽太はるたまでカウンター越しに手を振ってきた。


「おっと! 銀太コール入りました!」


 大堀の茶化しにもう言い返す気力もない。


「すごい人気だな。


 安齋も愉快そうに笑っている。田口は「静かにしてよ」と注意を促したが、当事者たちはそんなことを思ってもみないらしい。ただ目を瞬かせて顔を見合わせていた。


「え? うるさいか?」


「小さい声で話しているつもりだけど……」


 田口の父親と兄の金臣は目を瞬かせるばかりだ。


 ——勘弁して。


「ここは雪割と違って都会なの。そんな大きな声で話する人いないし……」


「おい! 田口」


 田口がそこまで言いかけると、それよりもなによりも、ひときわ大きい声が響く。こんな騒動だというのに、保住はまったく気が付いていなかったようで、書類を読み込むことに集中していたらしい。

 顔を上げて田口のデスクを見ている彼は「あれ? 田口は?」と目を瞬かせていた。


「室長。あの」


 大堀がカウンターを指さす。そこで初めて田口家ご一行がそこにいるということに気が付いたのか。保住は笑顔を見せて席を立った。


「おお。これは、これは」


「ああ~、係長さん」


「お久しぶりねえ。また銀太がお世話になっているのね」


 父親と母親は、嬉しそうに保住を見る。


「父さん、母さん。もう保住さんは係長じゃないって」


「そうなのか?」


「あら、じゃあ、なんてお呼びすればいいのかしら……」


「ですから。保住で結構ですよ」


「でもねえ……」


「室長だよ。室長」


 田口の言葉に、二人は「ああ」と頷く。


「係長さんより、室長さんってほうが、偉そうだな」


「ほんとよね」


「あのねえ。組織によって役職の立場は違うんだから。余計なこと言うんじゃないよ」


 金臣まで混ざって、田口家の騒ぎは最高潮だ。田口は泣きたい。保住に頭を下げることしかできなかった。


「すみません。室長」


「いやいや。せっかく来てくださったのだ。少し話しでもしてきたら」


 さすが保住の提案は素晴らしい。場所が変えられる。いつまでもここに居座られたのでは、自分の立場も危ういが、それにもまして周囲に迷惑がかかる。

 先ほどから、観光課の職員たちが興味深々でこちらを伺っている様子が見て取れるからだ。田口はさっそく、カウンターから廊下に出て、家族の背中をぎゅうぎゅうと押した。


「あのね。ここは窓口だから。悪いけど、ここではしゃべれないし。あっち。あっちさ案内すっから」


「なんだ、なにかごちそうしてくれんのか?」


「それはいいない」


 一同は余韻を残しながら田口に押されて姿を消した。




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