第25話 そばに置いてほしい。



 保住は、田口の様子が明らかにおかしいことに、少々焦りを覚えた。体調が悪いのは知っているが、頭までやられたのではないかと心配になったのだ。

 保住は、受け付けで支払いを済ませる。熊谷医院は院内薬局なので、支払いと同時に薬の処方をしてもらうことができた。


 正直に言うと、院内処方のほうが楽だ。なぜ最近は院外処方というシステムになったのかわからないが……患者としては、こちらのほうが楽であると思った。


 一連の手続きを終え、保住は薬と田口を抱えて、熊谷医院を後にした。


「おい。お前は車で来たのか?」


「はい。車で……」


 普段は一緒に通勤しているので、月極駐車場を一台借りている。そのため、別々に出勤する場合は、田口が歩くか、日割り駐車場を利用していた。


 保住は月極に置いてきたので問題はないが、田口の車は動かさないと料金がかかる。保住は田口の車に乗って帰宅すると決め、彼の車の元に引きずっていった。


 歩いて五分程度のところにある駐車場に到着すると、後部座席を開いて田口を押し込んだ。

 花畑で頭が緩くなっている田口は、後部座席にでも転がしておこうと思ったからだ。


 しかし、そう保住の思惑通りにはいかない。


「ここで寝ていろ」


 そう言ってから、ドアを閉めようとしたのに、田口に腕を掴まれて引っ張られたかと思うと、そのまま一緒に後部座席に引っ張り込まれたのだ。


「お、おい!」


 じたばたとして田口を押し返そうとするが、それは叶わない。田口の腕は太くて長い。強引に引き寄せられると、到底太刀打ちができないのだ。


「銀太! お前ね……っ」


「保住さん——。保住さんがおれのことをすごく心配してくれたり、気にかけてくれるのって、本当に嬉しいんですよ」


 体調が悪いくせに、悪ふざけが過ぎる! と思っては見ても、彼の気恥ずかしそうな声が耳元を掠めると、なんだかくすぐったく感じられた。保住は抵抗することをやめて、そっと田口の温もりを感じ入った。


 たった一晩、別な時間を過ごしただけなのに。こんなに大事になってしまうなんて。なんだか、彼との時間が久しく感じられたし、そして大切であるということを再認識させられたようだった。


 田口という男はいつもそうだ。何年もこうして一緒にいるのに、いつも保住のことを「好きだ」と身体全体で表現してくる。

 そんな愛情表現は、なんだか恥ずかしくてくすぐったいだけなのに——どうしてこうも


 保住はそっと身体を起こして、田口の頬に手を当てる。


 ——この男は繊細だ。ほんの一晩の出来事でこんなにも体調を崩すなんて。


「すまなかったな」


「保住さんのせいではありません」


「銀太」


 そっと唇を寄せると、田口のほうから唇を重ねてくる。角度を変えて何度も——だ。


「体調が、悪いのだ。この辺にしておけ……」


 田口を気遣うように囁く保住だが、言葉とは裏腹だ。気持ちは止めて欲しくないのだ。

 彼の頬に手を当て、そしてそっとその瞳を覗き込むと、彼の瞳は濡れている。優しい瞳の大型犬は、飼い主に甘えるのも豪快だということだ。


「大丈夫です。……きっと。あなたとこうしていられたら。胃痙攣いけいれんなんてすぐに治ると思います」


「そんなはずはなかろう」


「いいえ。お願いです。保住さん。やめろなんて言わないでください」


 人にすがってくるような目。彼は時々こういう顔をする。いつもは淡々と業務をこなす。硬派なタイプで、弱音を吐くようには見えないのだが、保住の前ではこうして、甘えたような瞳の色を見せるのだ。これは保住にしか見せないということは、保住自身がよく理解していることでもある。


「また。その顔。やめろ。おれが悪いことしているみたいじゃないか」


「え?」


「だから。尻尾も耳も垂れてしょんぼりしている犬みたいな顔だ!」


 保住は目を細めて笑顔を見せる。田口が自分の笑顔を好いていてくれていることはよく知っている。だから笑ってやるのだ。そうすると、彼はすごく嬉しそうに笑って返す。


 そう——この笑顔は田口にしか見せていない。他の人間には見せる気にもならないのに、なぜか彼には見せたくなる。以前、新人の頃に笑顔を見せたら周囲に引かれた。澤井にも不愉快だと言われたのだ。あれから、むやみやたらに笑顔を見せることは控えたほうがいいと学んだのだ。


 だがしかし田口は違った。彼は保住の全てを大事にしてくれている。


「保住さんは、おれの飼い主でしょう?」


「お前ねえ。おれはお前と主従関係を結ぶつもりはないが」


「え! そうですか。おれは保住さんに付き従う犬という立場が好きなんです」


「バカか! お前は……聞いて呆れる」


 ——銀太はいつも自分を下に見る。悪いクセだ。 


 保住は真剣な眼差しで田口を見下ろした。


「前々から思っていた。お前は誰にも引けを取らない有能な男だ。自分を下に見るな。おれはお前を認めている。お前に敵わないことばかりだ。だから銀太。お前はお前を大事にしろ」


 しかし田口はにこっと笑みを浮かべて保住を見据えていた。


「ありがとうございます。ですが——おれも前に言いました。あなたの隣に並ぶことが目標ですけど、まだまだそこまでは辿り着けません。おれは、あなたのためならどんなことでもできるんです。ですから、どうか。そばに置いてください」


 ——まったく呆れる。だが嫌いではない。


 保住は少しくすぐったい気持ちを持て余しながら、田口の頬を指でなぞった。


「そばに置いてもらうのはおれのほうだ」


 他人に対して素直になれない。気恥ずかしいのだ。どういう態度をとるのが正解なのかわからない。

 だが田口といる時だけは、素の自分をさらけ出しても大丈夫だと思ってしまう。

 それは彼が与えてくれる安心感。 そして見返りを求めてこない無償の愛のような深い感情だ。

 彼から与えられるこの気持ちがなんであるか、結局はよくわかっていない。なのに、ずっと包み込まれているような、それでいて温かいような……なんとも言えない感覚だった。


 田口の腕が伸びてきたかと思うと、首の後ろに回り抱き寄せられる。彼は飼い犬が飼い主に鼻をすり寄せるように、保住の首元に顔を埋めた。


「くすぐったいな……」


「保住さんは、ずるいです……」


「な、なにがだ?」


「もう、おれ。保住さんから離れられない。たぶん、保住さんを失ったら生きていけない……」


「なにを……大げさな」


「本当ですよ。大好きで堪らない。時々あなたへの思いが暴走してしまうのではないかと思うほどです」


 そう囁きながら、彼の腕は保住の腰からシャツを手繰り寄せた。はったとした保住は、その手を止める。


「こら。病み上がりのクセになにやっている。帰るぞ」


「いいじゃないですか。少しくらい。ご褒美もらえないと元気もでません」


「お前ねえ」


「いいんですか? おれ。仕事休んで」


 ——休ませてやりたいのは山々だが……おれも参っているんだぞ。


「ダメだ。ちゃんと仕事しろ」


「じゃあ、少しだけ——」


 田口は口元を緩めたかと思うと、保住を力任せに引き寄せて、体の位置をずらした。 



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