第10話 猫、敗北する。




「例えば、例えばですけど——。室長が酔って我を失い、おれに話した内容が、としたら? ってことでしょうか」


 保住は目を見開く。安齋の言っている例え話は保住の恐れていることである。ただ、それはとても抽象的で曖昧な表現でもあるが、不安に駆られている保住を動揺させるには十分だった。


 ——おれは安齋にどこまで話した?


 安齋は目を細めて意地悪な笑みを浮かべたまま続ける。


「室長は田口びいきだ。田口のことがそんなにお気に召していますか?」


「安齋……」


「別に脅しているのではありません。あなたの弱みを握ったつもりもありません。ただ、おれは


 ——興味だと?


 保住のその表情に安齋は頷く。


「そうです。ほど覗き見て面白いものはありませんよね?」


「安齋。お前、それは悪趣味というものだ。それに……おれと恋路それと、なんの関係があると言うのだ?」


 強い口調で言い放つも、震慴しんしょうしている自分がいる。安齋は保住と田口の関係性を知った上で話しているのだということが明らかになったからだ。


「そういうお話でしたよね?」


 保住の中では後悔の念に苛まれた。


 ——なぜ安齋と飲みになんか行ったのだ。ハイエナのような男だ。足元をすくわれる。銀太にも警告をさいれていたはずなのに。


 部下だから大丈夫という根拠のない信頼を持っていたのだろう。ここのところ仕事は真面目にやっていたからだ。自分は甘いのだろうか——?


 自己反省をしていると、ふと安齋に注意を払うことを怠っていたらしい。ふと気が付くと、安齋との距離が近いことに気が付いた。と。安齋は保住に耳打ちをした。


「——あなたの味は格別でしたよ」


「——!?」


 ——なんの話だ?


 思わず安齋との距離を取ろうと立ち上がる。彼は口元に笑みを浮かべたまま保住を見上げていた。


「覚えていらっしゃらないようですね。その反応じゃ」


 混乱していた。視界が揺らぐ。昨晩のことが一つも思い出せないことに罪悪感すら覚えた。


「ど、どいう意味だ……」


「いつも冷静沈着な室長の、そんなショートした姿が見られるなんて面白いですね。どういう意味って——子供ではないのです。ご理解いただけますよね?」


 彼はくすっと笑って、企画書を持ちあげた。


「さあ、打ち合わせをお願いします。それともその昨晩の振り返りをしたかったということですか?」


 安齋の問いに答えられないなんて不甲斐ない。こんなことは初めて。動揺している自分をどう始末したらいいのかわからずに惑っていると、安齋は続けざまに言葉を紡ぐ。


「室長はお酒を飲むと記憶を失くされる。それはそれで可愛いお姿でしたよ。おれは気にしませんから。大丈夫です。昨晩のことはおれの胸にしまっておくといたしましょう」


 思わせぶりに言う割に、核心を口にしない安齋は愉快犯だ。保住が混乱しているのが面白いらしい。終始意地の悪い笑みを浮かべているだけだ。


「安齋……。おれは」


「気になさらないでください。おれは、構いませんから」


「そういう問題では……」


「いちいち気にしていたら仕事になりませんよ。子供でもあるまいし。いいじゃないですか。は」


 余裕の笑みを浮かべる安齋を見ていると、それ以上は言い返す気にもなれない。今回ばかりは完敗だ。いくら頭の切れる男でも、記憶がないことを思い出すのは無理というものだ。


 田口にもいつも心配されていたことを彼がいないところでやらかしてしまったのだ。またいつものパターンではないかと思った。酔って記憶を失い、知らない人間と一晩を共にしてしまう、あれだ——。田口と出会うまでは、女性とそうなることばかりだったのに。


 女性どころの話ではない。澤井に始まり、次は安齋と? 冗談じゃない! と保住は大きくため息を吐いた。


「さあ、お願いします。困って泣きそうな室長も可愛いですが、普段の仕事の出来るモードに戻ってもらわないと。仕事になりませんよ」


 ——安齋には、すっかり主導権を握られっぱなしか。


 保住は諦めて軽く呼吸を整えてから企画書に視線を落とした。


「そうだな。こんなことは時間の無駄だ。おれが話を振った。すまない」


「いいえ。昨晩の振り返りができることは、おれにとったら至福の時です」


「——まどろっこしい言い方をする男だとは知らなかったな」


「そうでしょうか? 単刀直入がよろしいでしょうか」


 一つ言えば倍返しをしてくる男、それが、安齋だ。大堀の次は保住に牙をむく。やはり彼は、自分以外を信用していないのかも知れない。相手は誰でもいいのだろう。


 自分は上司として認められたと思っていた甘さが生んだ結果だ。田口の警告を軽んじた自分の目測ミス。後悔しても遅いとはこういうことだった。


「もういい。仕事だ」


「勿論、よろしくお願いします」


 結局。いつもの調子がなかなかつかめない。十分程度で終わるような内容なのに、安齋とミーティング室を出たのは一時間後だった。

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