第8話 疑念



 スマホのアラームの音で目が覚めた。目を開けて時計を確認すると、いつも起床する六時だった。


「眠ってしまったのか」


 二度寝? 朝方に保住に起こされて、シャワーを浴びて……それから、寝室に戻ったところまでは覚えているが、自分は眠ってしまっていたようだった。


 ——アラームなんてかけていないのに。


 体を起こすと、スマホの下にメモが挟まっていた。


『悪い、先に職場に行っている』


「保住さん……」


 昨晩も午前様。そんなに根を詰めて取り組まなくてはいけない案件があっただろうか? たった一日、残業をしなかっただけなのに浦島太郎状態だった。


 身支度を整えてから、簡単な朝食を摂って、七時過ぎに自宅を出る。本当なら早めに出勤したほうがいいのだろうけど……。澤井との時間を過ごしてきたということ、それを秘密にしていることが、なんとなく後ろめたいのだった。


 保住に会って、どんな顔をしたらいいのだろうか。ほぼ一緒に過ごしているおかげで、一晩、まったく違う時間を過ごしたということだけで不安になった。


 彼のよそよそしい雰囲気は、自分のそれと同じなのだろうか? なんとなくよそよそしく廊下に消えていく彼の後ろ姿が、漠然とした不安を掻き立てる。


 ——保住さんのあの態度はなんだ?


 あれは……昔。同じようなことがあったのではないか? まるで、田口には言えないことができたような……。澤井との関係性ができた時のような……。


 そんな不安を覚えながら市役所に足を踏み入れた。


「おはようございます」


 顔を出すと大堀が頬を膨らませていた。


「田口! 遅い!」


 ——遅かったのだろうか? まだ七時半じゃないか。


 大堀のコメントに不満を抱いたが、それは事実だったらしい。どうやら自分が一番遅かったようだ。安齋のパソコンが開かれていて、保住のデスクの上も書類が散乱していた。保住が先に出たのはわかっている事だが……しかし、二人はその場にはいなかった。


「悪いな。大堀。それよりも二人は?」


「企画書の件で、相談があるんだって。そこのミーティング室にいるよ」


 ——わざわざ? 変だ。


 胸騒ぎが止まらない。田口は鞄を置いてから椅子に座り、それからパソコンを開いた。


「大堀も昨日は残業したの?」


 軽い気持ちで彼に尋ねると、大堀は首を横に振った。


「おれは八時頃帰ったよ。もう限界だよ~。徹夜は緊急時だけだからね。もうやりませんよ」


「そっか——」


「安齋と室長は残っていたよ」


 ——安齋と保住さんが? 徹夜って。安齋も一緒に? なにもなければ、余計な気は起こさないのだが——。


『おれは正直、男でも女でも関係ないたちでね。気に入った人間にちょっかいを出したくなるものなんだよ』


 安齋のあの言葉が引っかかった。あの言葉の意味は? そして——。


『保住は押しに弱いからな。気を付けろ』


 澤井の言葉も脳裏をよぎていく。胸がざわざわとして落ち着かなくなった田口は、保住と安齋がいるであろうミーティング室に視線を向けた。

 昨晩の澤井との邂逅など忘れてしまうくらい気持ちが焦って来る。顔を出した衝動に駆られるが、そんなことはしてはいけない気もして、正直どうしたらいいのか、わからないのだ。心が惑うとなんだか心拍数が上がってきて、冷や汗が出てきた。睡眠不足も手伝っているのだろうか。なんだか目の前がぐらぐらと眩暈を覚えた。


「大丈夫? 田口——具合悪そうだけど……」


 大堀の声にはったとして顔を上げる。田口は首を横に振った。


「大丈夫だ」


「……大丈夫じゃ、なさそうな顔しているよ」


「そうかな……。昨日、飲み過ぎたのかも」


 田口に問いに、大堀は呆れた顔をする。


「なんだ。二日酔いかよ。心配して損した」


 彼はそう言うと、さっさと自分の仕事に戻るが、田口はとても笑える状態ではない。気持ちが一気に重たく感じられる。


 ——なんだ、この嫌な感じは。


 デスクの上でこぶしを握り田口は、眩暈めまいを押さえよう目を閉じた。




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